怪盗と判官

  

 

1955年12月7日(水)公開/1時間27分大映京都/白黒スタンダード

併映:「俺は藤吉郎」(森一生/林成年・長谷川一夫)

製作 酒井箴
企画 浅井昭三郎
監督 加戸敏
脚本 小国英雄
撮影 今井ひろし
美術 菊地修平
照明 古谷賢次
録音 林土太郎
音楽 大久保徳二郎
スチール 杉山卯三郎
出演 勝新太郎(鼠小僧次郎吉)、清水谷薫(お雪)、阿井美千子(おれん)、長谷川裕見子(お蔦)、堺俊二(栃面屋弥次郎兵衛)、益田キートン(喜多八)、市川小太夫(目明し伝七)、香川良介(遠山河内守)、荒木忍(京都所司代)、大邦一公(村雨藤五郎)
惹句 『東海道は剣と恋素性を知らぬ名奉行と怪盗の珍道中』『天下の怪盗と名奉行が、相手の身分や素性も知らずに、弥次喜多顔負けの五十三次珍道中』『一代の怪盗とも知らず、一世の名奉行とも知らず、二人仲よく弥次喜多道中、行手に待つは恋か、嵐か、血の雨か!!

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山根貞夫のお楽しみゼミナール

 『怪盗と判官』の見どころは、なんといっても市川雷蔵と勝新太郎の本格的な競演であろう。

 この映画は1955年の大映作品だが、周知のように二人は前年の『花の白虎隊』でそろってデビューした。そのあと、両人とも大映オールスター作品『薔薇いくたびか』に出ているが、共演といえる場面もなく、『踊り子行状記』でふたたび本格的に顔を合わせる。つまり『怪盗と判官』は三本目の競演ということになる。

 市川雷蔵は“遠山の金さん”を颯爽と演じるが、この年、少し前に『次男坊判官』でも同じ役をこなした。勝新太郎は鼠小僧に扮し、得意の歌も聞かせる。いかにも二人にぴったりの配役であり、サービス満点の若々しい時代劇ということができる。

 この映画はマキノ正博監督『弥次喜多道中記』(1938)のリメークである。元版では遠山金四郎を片岡千恵蔵、鼠小僧を杉狂児が演じた。ホンモノの弥次さん喜多さんは歌手の楠木繁とディック・ミネ。そこで、歌がふんだんに出てきて、オペレッタふう時代劇の趣向になっていた。

 それに対し、大映版の眼目は、あくまで新スター二人を明朗時代劇のなかで輝かせることにある。冒頭、片やひょっとこ面、片や頬かぶりで出会って、まもなく金四郎と鼠小僧が互いに素姓を知らぬまま旅をするというのは、小国英雄の傑作アイデアだが、市川雷蔵と勝新太郎がそれをじつに楽しそうに演じていて、見ているこちらも楽しい気分になってくる。

 二人は同年の生まれで、このとき二十四歳。芝居の舞台で“馬の足”に扮して大騒ぎをやらかすシーンなど、若い茶目っ気が感じられる。雷蔵も勝新もやがてユーモアの一面を多く出すようになるが、ここに初期の姿がある。

 お雪の清水谷薫は、前年清水谷洋子の名で東京映画からデビュー後、大映に移り、これで再出発した。この直後、長谷川一夫・雷蔵・勝新の競演する『花の渡り鳥』にも出ている。(キネマ倶楽部・日本映画傑作全集ビデオ解説より)

勝新太郎との共演作品。小国氏独特の時代喜劇である。内容は題名から容易に察しられるだろう。(「侍・市川雷蔵その人と芸」より)

 

■作 品 解 説■

☆本篇は一代の名奉行遠山金四郎と侠盗鼠小僧の弥次喜多道中が織りなす温かい人情と固い男同志の友情を描いて快よい涙と笑いに溢れた明朗時代劇でございます。

☆製作は酒井箴、企画は浅井昭三郎、脚本はベテラン小国英雄、監督は加戸敏、撮影は今井ひろし。

☆キャストは雷蔵、勝の二大人物の競演、これを彩る、阿井美千子、長谷川裕見子、その他、堺駿二、益田キートンの爆笑コンビの出演が、作品に明るいヴァラエティを加えています。

  

 今度『怪盗と判官』を撮ることになって、人から「金さんものは何本目です?」と聞かれ面食らったのですが、僕は『次男坊判官』で遠山金四郎を初めて演っただけで今度が二本目、この役は僕の十八番ものでも何でもないのです。

 しかし遠山の金さんは大好きで、彼を主人公にした小説や映画は面白く読んだり観たりしています。つまり身分の高い侍が、町人になって皆と一緒に難事件を解決する、その庶民的な親しみ深い味が受けるのでしょうね。

 探偵小説が好きですから、金さんものの捕物小説としての面白さも、もちろん好きですが、何と云っても僕にとって遠山金さんの最大の魅力は、例えば戦後、軍人が社会に放り出されて、「ハッ」「そうであります」とシャチコ張って行動して、かもし出したような、彼の身辺に漂う明るいユーモア・ほほ笑ましい雰囲気です。

 こういった楽しいコメディですから、彼を演る上でも難しく考えたら反って失敗、お客さんだってしかめっ面をして観る映画ではないのですから、軽い気持ちで演っています。こういうものは演技の上でも制約が比較的少ないのですから、のびのびとやらなけりゃ・・・。

 だから先輩と比べてどうこうなんてことも考えませんが、矢っ張り千恵蔵さんの金さん映画が一番面白く、またうまく演っておられると思います。一番辛いことですか?金さんは刺青判官と言われるだけに肩の刺青を見せるシーンが度々あるでしょう。朝など眠いのに叩き起されて二時間もかかってあれを描いてもらうことですね。

 僕の柄が遠山の金さんに合っているってですか?自分ではそんなにピタリの役だとは思っていないのですが、僕が演っておかしくないだろうとは思います。それにこういう明るいものは好きですから、これが将来の十八番映画になったら嬉しいですね。

 今度の『怪盗と判官』はいわば金さん外伝ですが、とても面白い楽しい物語ですから、ファンの方々からどんな声が聞かせてもらえるか楽しみにしています。(公開当時のパンフレットより)  

 

 市川雷蔵・勝新太郎・清水谷薫・阿井美千子・長谷川裕見子の清新キャストで描く大映京都の『怪盗と判官』は、監督天野信が病気のため、かわって加戸敏監督がメガホンをとることになり、このほど正式に変更された。

 さてこの映画の雷蔵の役は、江戸の名奉行・遠山金四郎。一名刺青判官ともいわれるだけに、肩に桜の刺青を見せて威勢のいいタンカを切るシーンもしばしば。この刺青、もちろんほるのではなくて描いてもらうのだが、それでもそのシーンがある度に刺青を描くだけで二時間はかかる。雷蔵は睡眠時間を長くとるために、ふだんから朝ご飯を食べない位にしているので「これは睡眠不足になるなあ」と悲鳴。

 一方侠盗・鼠小僧に扮する勝新太郎、泥坊を演るのは初めてだが、何といってもこの役の性根は目付きだと鏡とにらめっこして、凝ること一方ならず。さてこのほど母親が久しぶりに訪れてきたので、じっとこの目付きをしてみせると「何です泥坊みたいに」とたしなめられ、はじめて会心の笑みをもらしたとか。スターにも中々蔭の苦労が秘められているのである。(西日本スポーツ 11/02/55より)

(オールスポーツ 12/02/55より)

  

『役者道中』

萩原四朗 作詞、大久保徳ニ郎 作曲、勝新太郎 唄

一、
紅いのぼりが ひらひらと
風にはためく 旅荷車
乗るは二枚目 仇役
粋な新造も 嫁様も
今日は素顔で ー ー ー
次の宿場へ ゆれて行く
二、
右を指さしや 東海道
江戸が恋しい 道しるべ
ままになろうか 旅役者
我慢しなされ 左にまがろ
一夜泊りの ー ー ー
宿もあの娘も 霧のなか
三、
見せる舞台は 絵そらごと
どうせあくどい 色模様
役者稼業は しがないが
親のない子にや 不憫をかけて
みんなふり向く ー ー ー
寒い他国の 七日月

 

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■梗 概■

 盗んだ金を貧民に施すところから江戸市民に人気を得ていた侠盗鼠小僧は、彼をつけ狙う目明し伝七の捕物陣の重囲に陥ち、ある夜一軒の料理屋に逃げ込んで女たちを前に馬鹿踊りに興じている踊姿の男に出会った。男の構えからは、怖いもの知らずの次郎吉にも数段優る腕の冴えがうかがえたが、結局その男に危機を救われた形で、たまたま次郎吉は頬被り、男はひょっとのお面を被っていてお互いの顔を見知らぬまま別れた。

 翌朝奇しくも江戸日本橋から東海道を下るこの二人の旅姿が見られた。男は旗本の名門遠山河内守の嫡男金四郎であった。彼は継母の思惑を察し弟に家督を譲ろうと、かねてバクチ、遊蕩に耽り、はては刺青までして、心をつかったが、そのやさしい心情を反って彼を愛する父に気付かれあわてて家を飛び出たのであった。

 一方次郎吉は「心願が一つあり。それを遂げぬうちは江戸に心が残るが、しばらくほとぼりをさまそう」と謎の言葉を残し上方へ旅立ったのである。

 彼等はお互いに相手の旅立ちを知らず、先を急いだ。だが箱根山中の茶店で、丁度これまた五十三次膝栗毛に出立した栃面屋弥次郎兵衛、喜多八の二人組がマンヂウ喰い競争に熱中しているところへ次郎吉、つづいて金四郎がさしかかった。そして茶店に腰を下した二人は間違えてそれぞれ弥次喜多のかさをとって思い思いに立ちさり、次の宿場の宿の女中に道づれと間違えられ、同室に案内されてしまった。だがこれを機会に二人は俄然意気投合しこれから一緒に旅をしようと約束した。

 ところがさらに椿事が起った。相次いで同宿したホンモノの弥次喜多が、風呂の底を抜くという珍妙な失敗をしでかす騒ぎに、二人の胴巻が紛失してしまったのである。次郎吉には思い当ることがあった。それは彼に思いを寄せる女スリおれんが彼の後を追って東海道を下って来たが、彼が色よい返事を与えなかったための仕返しだった。宿の女中が「丁度、江戸の目明し伝七さんがお泊りになっていらっしゃいます。その方に調べてもらったら」といいかけると、二人は同時に「それはいかん」と叫んで、お互いの正体をいぶかりながら宿を飛び出してしまった。

 翌日、次郎吉を追って伝七、おれんが急いでいるとも知らず、彼等はのんびりと小川のほとりで野宿の朝を迎えた。腹は減る、ふところは淋しい。二人は思案に困った末、折よく傍を通りかかった旅芸人甚兵衛の一座に飛び込み、座頭以下一同の親切なはからいで馬の脚をつとめながらどうにか道中を続けることになった。

 さて一座がある宿場町で小屋をかけると、土地の顔役村雨の藤五郎が、一座の小町娘お雪を見染め酒の酌に来いと無理難題を吹っかけ、諾かずと見るや、興行を妨げるという卑劣な挙に出てきた。お雪やその弟三郎たちと仲好しになった金四郎と次郎吉は、姉さん株のお蔦共々すっかり同情して藤五郎の仕打ちをフンガイしたが、馬の脚では相手にされない。だがたまたまお蔦とお雪が一夜、藤五郎の宿にさらわれたと知るや二人は、めいめい人知れず姿を消した。そして藤五郎の家に現われた頬被りと天狗面の男二人の大活躍で、お蔦とお雪は危いところを救われた。お蔦はこの騒ぎがもとで病に倒れたが、臨終にあたって貧しい一家が次郎吉の義挙で救われたという幼時の思い出話は、次郎吉と金四郎それぞれの胸を感動させた。

 その後も一座と共に自称弥次喜多の楽しい旅は続けられた。近江に着いた一行は北陸路をとることになり、彦根在の母に会いにいくお雪姉弟が京を目指す二人の手に託された。だが訪ねてみるとお雪の母は信州に引っ越していた。そこで金四郎はさらに一行と別れて京都に留まり次郎吉はお雪たちを連れて再び江戸へ引返すことになった。そしてすっかり仲よしになった四人は江戸で半年後、満月の夜再会しようと約束し袂を分った。

 金さんに思いを寄せるらしいお雪の熱い目ざし。依然あとをつけてくるおれん。半年後の再会はどうなるだろう。侠盗次郎吉の心願とは?好漢金さんの身の上は?。(公開当時のプレスシートより)

怪盗と判官

小菅 春正

 お互いの素性を知らぬ遠山の金さんと鼠小僧の二人旅に、弥次郎兵衛、喜多八の両コメディアンまで登場させた趣向はいかにも小国英雄脚本らしい思いつきといってよい。さらに女道中師や、旅芝居の一座、母を尋ねる姉と弟━といった具合に、お約束通りの道具立が抜かりなく揃えられているから、一応見た目のにぎやかさは持っている。

 しかし、これはいわば粗製の駄菓子を取り合せた面白さで、うまみというものはない。職人芸のおさらいにすぎず、材料も作り方(加戸敏演出)も共に雑だからである。まだ縛られたくない、という冒頭の鼠小僧の心願はついに最後まで解らないし、偽せ鼠が、鼠を追う目明し伝七だったという種明しも、随分と乱暴な話である。どんでん返しは大変な機智を必要とするが、『昨日消えた男』の拙劣さを戦後まで持ち越しているのは閉口である。興行的価値:決定的なスター・ヴァリューに欠けるうらみはあるが、娯楽作としてはけっこう楽しめる内容をもっている。勝もようやく人気のついて来たところだから、積極的に売るべきである。

 

わが時代劇映画50選(11) 『怪盗と判官』1955、大映、監督・加戸敏

 ぼちぼち雷蔵映画にとりかかろう。もっとも、あらかじめ断っておいた方がいいが、いわゆる名画や眠狂四郎シリーズは(いまのところ)やるつもりはない。あまり評判かまびすしい括弧付き「市川雷蔵」は、いまの私にはちょっと距離がある。私にとっての雷蔵はリアルタイムの記憶とともにある、「名優雷蔵」の原風景としての雷蔵である。

 さて『怪盗と判官』だが、ある意味ではこれが私にとっての雷蔵の原点である。格別な名画でも何でもないし、もちろんこれが初見参でもない。私の「若き日の雷蔵」イメージをもっとも典型的にあらわしている、という意味で、原点なのだ。正確には雷蔵映画というより、同時に売り出した勝新太郎とに二枚看板で、雷蔵の遠山金四郎と勝の鼠小僧が互いにそれと知らずに意気投合して弥次喜多道中をするという明朗時代劇だが、雷蔵としては同じ年に『次男坊判官』を先に撮っているから、金四郎役者にという路線もあり得たのかもしれない。当時は遠山の金さんといえば千恵蔵が専売特許にしていたから、それに対するフレッシュな青年金四郎という売りだったに違いない。

 もっともこの映画では、名探偵としての謎解きもなければ桜吹雪を見せて悪党を恐れ入らせることもない。金四郎としては冒頭に茶屋遊びをしていて鼠と出会うところ、わざと放蕩に明け暮れて継母の胤である弟に家督をゆずって出奔するところ、最後に奉行になって鼠小僧の大捕物と市川小太夫の偽鼠の罪状を暴くという「額縁」部分だけで、中の餡子のおいしいところはもっぱら弥次さんで見せる。つまり金四郎で時代、弥次郎兵衛で世話と使い分けるわけだ。そこらの押したり引いたりをさりげなくやって見せるあたりが、雷蔵がはじめから、老成というか大人の役者であったところで、ムキになって強調してみせる錦之助のカワイさと好対照であり、この対照が、もしかすると二人の芸だけでなく役者人生そのものまで、暗示・象徴しているようにも見える。(『切られ与三郎』でも、多々良純の蝙蝠安と連れ立っての源氏店の場面で、芝居と映画の違いをさりげなく演じ分けている。錦之助なら、良くも悪くもああはやるまい。)

 勝新太郎はこのころはまだ後年の「勝新」とは別人のごとく、黒目勝ちのむしろかわいい感じをチャームにした「二枚目半」(という用語が当時映画界ではよく使われていたっけ)である。この二枚目半の「半」というのは、三枚目にかかっているという意味だが、この「半」の部分が後年の勝新を生み出す要素になったのである。(これ、勝新太郎論として欠かせぬところだと信じる。)

 長谷川裕見子が東映に移ったがまだ大映にも仕事が残っていたというタイミングで、出番は多くはないが、「義賊」の意味を金四郎と鼠小僧双方に考えさせるポイントになる役をつとめる。脚本としてもミソ、演技としても彼女を看取る場面の雷蔵・勝ともにいい。いま見直すと、雷蔵ならではのリリシズムがリアルタイムで見た印象よりなかなかオツである。琵琶湖のほとりで石投げをする場面など、雷蔵ならではの香りがある。お定まりだが気のいい女賊を阿井美千子、それに清水谷薫なんていう(忘れてた)新人女優が出ている。思えば阿井美千子という人も、大映時代劇を語る上で欠かせない人だ。(上村以和於の随談より)

 

俺は藤吉郎/怪盗と判官
昭和30年12月5日(福岡中洲大洋映画劇場)

 

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