1956年2月26日(日)公開/1時間24分大映京都/白黒スタンダード

併映:「姿なき108部隊」(佐藤武/笠智衆・中山昭二)

(サンスポ大阪版 02/20/56)

監督 田坂勝彦
原作 五味康祐
脚本 鈴木兵吾
撮影 杉山公平
美術 内藤昭
照明 岡本健一
録音 大角正夫
音楽 鈴木静一
助監督 黒田義之
スチール 松浦康雄
出演 勝新太郎(鈴木綱四郎)、黒川弥太郎(宮本武蔵)、林成年(徳川光義)、立花宮子(さん)、角梨枝子(美和)、三津田健(徳川義直)、佐々木孝丸(柳生兵庫之介)、夏目俊二(柳生茂右衛門)、香川良介(渡辺守綱)、南部彰三(美倉好意)、光岡龍三郎(馬喰熊五郎)、伊達三郎(使者泉山修)、市川小太夫(清州十右衛門)
惹句 『雲は流れ、陽は昇る天日ケ原に青年剣士が、宿命の対決』『雲は流れ風動く、天白ケ原に切って落された剣術史まれに見る凄絶の血戦』『斬ったを知らず斬られたも知らず一剣に恋と生命を賭けた青年剣豪と剣聖

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★ 作品解説 ★

★原作は「剣豪ブーム」をまき起した五味康祐の「柳生連也斎」。この小説が「オール読物」に発表されるや、話題の中心となったのは、両剣豪が天白ガ原で試合をした時、どちらが勝ったか、読者にも分らぬと評判の立ったもので、迫真の真剣試合が、いかに異色的であったかうかがい知れよう。

★脚本鈴木兵吾、監督田坂勝彦、撮影杉山公平、音楽鈴木静一。

★配役は市川雷蔵の柳生連也斎、勝新太郎の鈴木綱四郎を中心に、林成年、夏目俊二、黒川弥太郎、それに、新スタア立花宮子、角梨枝子、併せて、三津田健、香川良介、佐々木孝丸、南部彰三、光岡龍三郎、伊達三郎、市川小太夫の競演である。

天白ガ原の決闘に両剣豪が尽した秘太刀とは?

「見切り」の秘太刀鈴木綱四郎

宮本武蔵直伝、刀を八双に構えて敵に対し、

敵の剣先と自分との間をたえず“一寸”の間隔に保つ、
そして、仕掛けた相手の体の崩れに乗じて討ち果たす。
「影を切る」秘太刀柳生連也斎
新陰流の四世である父が語った謎の言葉「影を切れ」
それは、太陽に向い敵の影の頭を踏み、
進退すべて天体の運行に任せ、
その影が太刀の長さにちぢまった時に間髪を入れず斬って捨てる。

(スポーツ報知 02/12/56)

★ 梗 概 ★

 慶安元年春、放浪の剣士宮本武蔵は、尾州藩家老清州十右衛門の推挙で、藩主義直の前で豪快な剣技を披露し、満座の感嘆を集めたが、その希望とする仕官の件は、同家指南役柳生兵庫之介の一言で微塵にうち砕かれた。

 義直の近習鈴木綱四郎は武蔵の教えを受ける天才的な青年剣士だが、武蔵の心中を思い、兵庫之介の差出口を恨んだ。尾張に望みを断った武蔵は、名古屋を離れるに際し、綱四郎に不敗の剣理“見切り”の秘太刀を授けた。今回望んで果せなかった「柳生に勝つ」という彼自身の夢を綱四郎に托したのである。

 尾張に綱四郎と並び称される青年剣士柳生兵介がいる、彼は兵庫之介の次男で綱四郎とは幼馴染である。綱四郎の柳生流に対する闘志はむしろこの兵介にむけられた。その夜も武蔵と別れた綱四郎は途中で兵介に会い、瞬間両者から激しい剣気がほとばしり出たが、兵介のおだやかな言葉に一応事なきを得た。

 折から、綱四郎は重臣たちの推挙で、若殿光義の師範役となる内意を受けたが、兵介を愛する光義の反対で、結局はその役を兵介に譲る破目になった。しかも、綱師範役就任を既に彼の愛する女、料亭喜仙の看板娘美和に伝えていたため、美和に対しても面目を潰した結果となった。更に、彼はこの一件で美和の心が兵介に傾けられている事実をはっきり見せつけられた。かくて、彼の兵介に対する闘志と敵意は一層激しく燃え上った。

 一方、美和も又兵介と新しく交際を始めた若殿付侍女さんが、共に江戸へ行くことを知り、更に二人のむつまじい姿を垣間みて、絶望の果て、自暴自棄に陥っていった。

 江戸で兵介は光義に下情の勉強をすすめたが、これがやがて国表で悪し様に言い伝えられた。彼は、早速名古屋に召喚されて、重臣たちの訊問を受けたが、それに対して少しの申し開きもせず、光義不行跡の責を一身に背負って、その結果、ため師範役を罷免された。しかし、兵介の真情を知る光義は、侍女さんに「よい家臣を持った」と深く述懐するのだった。

 綱四郎は帰国した兵介を誘って、町外れの小汚い飲み屋へ行き、そこに変り果てた美和の狂態を見せつけた。美和は兵介を思い切れず、女の意地から綱四郎の親切を拒み続けていたのだが、恋敵さんの噂を改めて聞くに及んで、綱四郎に狂気のように云った。「兵介を斬って!斬ってくれればあなたの自由になります」

 この宿命的な兵介対綱四郎の対立は、城内で催された吉例の総調練で、光義の座所へ飛んだ外れ矢の事件で決定的となった。すなわち、瞬時に義直を守った綱四郎の処置がよかったか、背後の三葉葵の紋を守った兵介の態度がすぐれていたかで藩内の議論が沸騰し、ひいてはどちらが強いかの問題にまで発展したのである。

 江戸へ帰る光義から兵介へはなむけとして贈られたさんとの縁談の決ったその日、兵介へ綱四郎から火のような果し状が使者を通じて届けられた。藩主義直も、武蔵以来の宿命に似た二人の関係を考え、やむなくこの真剣試合を許したのである。

 試合場は天白ケ原、当日まで余す数日の間に、人々は慌だしく動き、考えた。綱四郎の好意を充分感じながら兵介を刺そうとねらっている美和、試合を妨げようとあせるさん、早馬で江戸へ駆けつけ光義に印可を与える兵介、綱四郎を気づかって駆けつけた武蔵、武蔵の極めつけに必勝を期す不敵の綱四郎。「影を斬れ」と謎の一言を兵介に授ける兵庫之介。

 そして、その当日太陽を背に受けた綱四郎、綱四郎の両眼を凝視する兵介、剣術史上まれにみる両雄は天白ケ原に対峙した。ジリ、ジリ・・・・雲が太陽に追いついたその瞬間、激しい刃音と共に勝負は決っていた。( 公開当時のパンフレットより)

 

  

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柳生 厳包やぎゅう よしかね/としかね 寛永2(1625)年 - 元禄7(1694)年 は号を「連也斎」といい、新陰流第五世。柳生利厳(兵庫助)の三男で母・珠(利厳の継室)は島清興(左近)の末娘である。

 幼少より剣術の才能に恵まれ、利厳の高弟、高田三之丞により指導を受ける。初めは母方の実家である島家を再興させる予定であったが、その才能が評価されて正室の子であった異母兄柳生利方をさしおき流派を継承する(尾張柳生家の家督は利方に譲られた)。「尾張の麒麟児」の異名を持つ。流祖、上泉信綱より柳生宗厳(石舟斎)、柳生利厳と連なる新陰流の剣術を完成させたのは厳包であると言われている(四世は、尾張藩藩主徳川義直に伝授)。

 著書に「御秘書」、「連翁七箇條」。柳生拵、柳生鍔を考案。愛刀は肥後守秦光代の作(拵えの形状から、籠釣瓶ともいう)とされる。ほかに秦光代には1尺4寸の片切刃鎬造の脇差を特注。これにはその形状と、連也斎が就眠中刺客に襲われた際、この脇差で片手斬りにしたことから「柳生の鬼包丁」の異名がある。また尾張藩お抱え刀工の伯耆守信高(3代)の作が残されている。さらに肥後守秦光代の師匠である江戸石堂派の対馬守常光に、常光唯一の郷写しの中脇差を特注しており、これは由来の鞘書きと共に徳川美術館に納められている。また、主君である徳川光友の命による初心者のための訓練法である「取り上げ使い」を開発するなど、後進の育成にも力を尽くした。

 生涯を独身で過ごし、死後は遺言によって遺骨は熱田沖の海上に撒かれたという。厳包の後、尾張柳生氏は、尾張藩の兵法指南役として明治維新まで仕えている。

 伝説があり、1651年に江戸城で催された「慶安御前試合」に兄、利方と共に参加。将軍、徳川家光に燕飛を上覧。後、柳生宗冬と試合を行って木刀で右拳を砕き勝利したとされる。その際柳生厳包により使用され、柳生宗冬の血痕が付着していると伝承される木刀が、現新陰流宗家に伝えられている。もっとも、尾州柳生の印可をうけている人たちの話によると、宗冬と兵助の演じたのは「大転」と呼ばれた勢法、つまり型であって、兵助の使太刀の打ち込みが早すぎたため、宗冬の拳を傷つけたのではないかといわれている。(今村嘉雄「図説日本剣豪史」) 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

五味康祐著「柳生連也斎」は廣済堂出版、傑作時代小説や新潮文庫で読める。

 剣の世界を描いて右に出る者なしと言われた「剣豪小説」第一人者の精髄集。あの武蔵が強敵と呼ぶ早川典膳の秘太刀の因果とは(「秘剣」)。新陰流正統を継いだ男が、その座をなげうった勝負とは(「柳生連也斎」)。表題作二篇の他、剣の深奥を巡る師弟を描いて芥川賞受賞作となった「喪神」、剣豪が巨人軍の強打者として大活躍する異色作「一刀斎は背番号6」など、名作九篇を収める。

五味 康祐(1921‐1980)大阪に生れる。早稲田大学英文科中退。様々な職業を転々とした後、文芸評論家保田与重郎に師事する。1952年「喪神」が芥川賞を受賞して注目された。以後、時代小説作家として活躍し、剣豪ブームをまきおこした。

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