次郎長富士

1959年6月3日(水)公開/1時間45分大映京都/カラーシネマスコープ

併映:「新しい製鉄所」(記録映画)

製作 三浦信夫
企画 浅井昭三郎
監督 森一生
脚本 八尋不二
撮影 本多省三
美術 内藤昭
照明 岡本健一
録音 林土太郎
音楽 斎藤一郎
助監督 井上昭
スチール 小牧照
出演 長谷川一夫(清水次郎長)、京マチ子(お勝)、若尾文子(おきく)、山本富士子(お新)、勝新太郎(森の石松)、鶴見丈二(大野鶴吉)、根上淳(小岩)、本郷功次郎(小政)、船越英二(江戸っ子金太)、黒川弥太郎(大政)、近藤美恵子(お蝶)、浦路洋子(お妙)、中村玉緒(お松)、三田登喜子(おさい)、美川純子(鶴代)、加茂良子(〆奴)、小町るみ子(おてる)、毛利郁子(お艶)、阿井美千子(およし)、林成年(桶屋鬼吉)、品川隆二(大瀬半五郎)、千葉敏郎(法印大五郎)、舟木洋一(神戸長吉)、滝沢修(黒駒勝蔵)、香川良介(武井安五郎)、小堀阿吉雄(安濃徳次郎)、井澤一郎(豆狸の長兵ヱ)、島田竜三(枡川の仙右ヱ門)
惹句 『喧嘩っぷりに、男っぷりに、思わずうなる小気味よさ二十八人衆の大暴れ』『大映総動員で斬りまくる秋葉の火祭から富士川の決戦まで・・・・』『秋葉の火祭りより、代官斬込み、荒神山の血煙、石松三十石船、鬼吉喧嘩状、富士川の決戦まで、清水一家の大喧嘩を全部集めて日本中の話題独占

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★解 説★

☆一本立大作主義を声明した大映が、その大作のトップ・バッターとして製作するのがこの『次郎長富士』で、昨春の『忠臣蔵』に続いてオールスター出演作品である。

☆清水の次郎長や、その一家を描いた作品は枚挙にいとまのないほどであるが、この作品は次郎長伝のすべてを盛り込んだ娯楽篇で、次郎長の秋葉の火祭での売り出しに始まり、吉良の仁吉の荒神山の血煙り、森の石松三十石船の金毘羅代参、更に代官所斬込み、そして最後に黒駒の勝蔵との富士川原での決戦と、次郎長伝のおなじみ場面を繰りひろげる。

☆脚本は八尋不二、演出は『若き日の信長』で重厚さを示した森一生があたり「文句なしの娯楽篇として、スピードのある演出をしたいと」抱負を語っている。

☆次郎長には初役の長谷川一夫、吉良の仁吉に市川雷蔵、森の石松に勝新太郎が扮し、黒川弥太郎の大政のほか、根上淳、船越英二、品川隆二、石井龍一らの多摩川現代劇陣が加わり、一方女性群も、京マチ子が女貸元、山本富士子が女道中師、若尾文子が仁吉の女房に扮し、更に近藤美恵子、浦路洋子、中村玉緒、三田登喜子と多彩な顔ぶれを揃えている。(「時代映画」昭和34年5月号より)

 

★スタヂオマイク★

 森一生監督と長谷川一夫との顔合せは、昭和31年の『人肌蜘蛛』以来三年ぶり。『若き日の信長』で重厚な演出を示し、堅実さを示した森監督が、その好調さを持続して、この超大作に当り、長谷川一夫の新しい芸域を引出すことになった。セットの打合せをする森監督と長谷川の間に次のような会話が交わされた。

「永田社長がその信念を以って一本立製作を言明し、映画界を混乱から救おうとする、そのトップバッターがこの作品だけに、責任を感じています」

長谷川「とにかく一応社長が声明を発し、世論をまき起したことだし、何とかして濫作に止めをささねば、映画界自体の消滅だとぼくも社長の説には双手をあげて賛成しているんです」

「この作品の企画された精神からみても、昨年作った『忠臣蔵』に匹敵する豪華キャストで、清水次郎長始め二十八人衆の活躍を痛快に描くことが一番大切だと思うのです。みなさん御存知のストーリイを、おなじみのスタアで演じていく。これが魅力だと思うんです。このため演出も押すべき点はぐっと押してゆくが、それを歯切れよいテンポで畳みこめればよいんですが・・・長谷川さんを中心に、雷蔵、勝という中堅に、鶴見、本郷、島田という新人、根上、船越、黒川というベテランに、多摩川から京、山本、若尾の三スタアの出演をえているので、それぞれおこのみのファンの期待を裏切ることは出来ない。これを考えると今から頭が痛いですよ」

長谷川「ぼくも余りにも知られている素材だけに、新解釈では駄目だと思いますネ。史実によると、次郎長はどうも西郷隆盛みたいな、どっしりした方のようですが、ぼくがやればどうしても、色気が先に出てくると思うんです。この点を森さんよろしく演出の方でカバーして下さいよ。量より質で競争する方が賢明であることを、具体的に示すためによりよい映画に仕上げて、ファンの方々にタンノウして頂ける作品にしたいものですネ」(公開当時のプレスシートより)

(クフクスポ06/01/59)

 

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★梗 概★

 折からの秋葉の火祭で賑わう秋葉神社の境内では武井安五郎の賭場が盛大に開かれていた。その集った一室で親分安五郎は、大親分の黒駒勝蔵と好きな碁をかこんでいる。そこへ血相を変えた子分が、清水次郎長が来たことを告げた。瞬間、ハッとした安五郎ではあったが、何喰わぬ顔で、石を置く、慌しい子分の足音をかきわけ、すくっと現われたのは、清水次郎長。

 清水次郎長は無法な安五郎をきめつけ、枡川の仙右ヱ門兄を殺した小台小五郎の身柄引渡しを要求した。だが安五郎の態度に業を煮やし、碁盤を足蹴にした。この次郎長の気性の激しさに、黒駒勝蔵は目をみはった。

 勝蔵の計らいで、小五郎と仙右ヱ門の一騎討ちが行われた。仙右ヱ門はやっとのことで小五郎を仕止めたが、神域を血で汚してしまった。これをみてホクソ笑む勝蔵の心にうす黒い企みが湧いてきた。神域を血で汚したことを理由に次郎長の身辺に御用の手が伸びてきた。いち早くこれを知った次郎長は、草鞋をはいて旅に出た。

 一方、次郎長召し捕りの手段として、女房お蝶を人質にせんと、清水へやってきた目明しの一行もあったが、森の石松の機転で、難を免れた。次郎長の身を案ずるお蝶は、石松を伴に夫次郎長の跡を追って旅へ・・・。

 そのお伴の道中で、つい好きな酒に酔いしれた石松は、不覚にも道中師お新に胴巻きを盗まれた。懐中無一文になったお蝶は道中で発病。おのれの愚かさを詫びる石松であったが、どうしようもない。途方にくれている時、通りかかったのは、以前世話をした豆狸の長兵ヱ。藁をも掴む思いの石松は、長兵ヱの家にお蝶をつれこみ、甲斐甲斐しい介抱をする。

 その頃、次郎長は法印大五郎、桝川仙右ヱ門を伴い、亀崎の宿に入った。宿をとった旅籠が、偶然にも大野鶴吉の家。何か異妙な雰囲気が募る次郎長は鶴吉の父から思いがけぬことを聞かされた。今ではやくざの足を洗いかたぎになっている鶴吉の、許婚お妙に土地の代官が横恋慕、是非妾にと無理難題。思い余った鶴吉は、代官屋敷に乗りこんだというのである。可愛い子分の鶴吉を捨ててはおけないと、次郎長は押っ取り刀。この次郎長のただならぬ姿を見たのは豆狸の長兵ヱ。次郎長の袂を押さえた。お蝶の急病を知った次郎長の足は鈍った。だが、鶴吉の命を救うために、情をふりきって代官所へ。喧嘩がめしよりすきな石松はその跡を追って素っ飛ぶ。その頃、代官所では、花嫁姿をがらりと捨てた鶴吉が、悪代官相手に必死の大暴れ。そこへ駆けつけきたのが、次郎長以下石松ら。次郎長の出現で事の重大さを知った代官は、平謝り。無益な殺生を好まぬ次郎長は代官をきつく戒め、颯爽と引き上げていく。

 日ましにあがる次郎長人気を、快く思わぬのは黒駒の勝蔵であった。たまたま浜松の大貸元和田島太左ヱ門の跡目相続披露の席で、次郎長の姿を認めるや、この気持が爆発した。大岩始め勝蔵の子分が、じりじりと次郎長につめより、華やかな宴席が修羅場となりかけた。この時、現われたのが和田島の二代目お勝。殺気立つ両者の間に割って入り、鮮やかな留め女、二代目の貫禄を示した。

 勝蔵はこれを契機に、次郎長を目の敵にし、彼を叩く機会を虎視眈々と狙っていた。まず、その手始めとして武井安五郎に、次郎長の留守をよいことに府中の盆割をやることを命じた。これを知った大政ら清水二十八人衆は武井の安五郎の賭場に雪崩れこみ血の雨をふらせた。民家にかくれた安五郎を斬り倒す時、あやまってその民家を焼いた。このことが次郎長の逆鱗に触れた大政らはお蝶の配慮で、一応、吉良の仁吉の所に草鞋をぬぐことになった。

 仁吉の家では、荒神山の盆割を無法にも安濃徳に奪われた弟分の神戸長吉が、仁吉の後押しで何とか取り戻したいと泣きつきに来ていた。仁吉は好いて好かれて添いとげた新妻おきくのことがフト頭に浮んだ。おきくは安濃徳の妹である。女の縁にひかれて長吉の云い分をきかないといわれては、やくざの一分がたたぬ。仁吉は唇をかんでおきくに三行半をつきつけた。驚くおきくに、やくざ渡世のはかなさを仁吉はしみじみと語るのだった。

 仁吉は大政ら清水二十八人衆と共に、荒神山に乗りこみ安濃徳と対決した。だが黒駒の応援を得て意を強くしている安濃徳は、理を尽くし、情に訴える仁吉の云い分に耳をかそうともしない。やがて、荒神山を血に染めての大乱斗が展開。仁吉は鉄砲にうたれ、はかなく命を絶った。駆けつけてきた次郎長は涙をのんで仁吉の冥福を祈ってやるのだった。安濃徳の敗北を知った黒駒は、自ら次郎長と対決せんと、よりよりに子分を集めていた。その報を受けても次郎長は頑として動かない。その長脇差には封印がしてある。お蝶との誓いを守り、今後一切長脇差を抜かないことに決め、不浄の長脇差を金毘羅様に奉納させるために石松を代参を命じたのだった。

 その頃石松は、険悪な雲行きをよそに、のん気な道中をつづけている。三十石船の船中で、江戸っ子金太の清水一家礼讃の弁にいい気になって酒をのませたり、すしを食わせたりの大サービス、だが大政以下の名が出ても、石松の名がなかなか出ぬのに躍起になるがやっと出てきたと思えば、石松は強いことは強いが、頭が弱い、といわれさすがに大腐り。一方、黒駒の勝蔵は、機熟するとみるや、小岩に命じて、喧嘩状を次郎長の許に届けさせた。今度の喧嘩で次郎長の息の根を止めんとものと満々たる斗志に駆り立てられていた。小岩を迎えた次郎長一家。さすがに殺気立った。静に封を切った次郎長は、はやる子分をおしとどめ、小岩に、おって返事はこちらからと、とにかく穏やかに送り出すのだった。

 次郎長の認めた返事を誰が持ってゆくかで一悶着。行けば命がないことを覚悟の上で、喧嘩好きな二十八人衆は、われもわれもと買って出る。兄貴分の大政の発案で、クジ引きでその役をきめることになり、桶屋の鬼吉が当った。喜び勇んだ鬼吉は、早速桶屋へ飛び込み、一番でっかい棺桶をかついで、一目散に、黒駒へ・・・。黒駒の本陣ではこの異様な使者にあっ気をとられた。手紙を受け取った大岩は、鬼吉を一刀の下に斬ろうとしたが、それを止めたのは小岩であった。喧嘩の場所は富士川原。東海道の任侠の第一人者を賭けての大喧嘩。西に黒駒以下数百人、東に次郎長以下百数十人。暗澹たる雲の下、粛々と繰り出す遊侠の群れ、次郎長が勝つか、黒駒が勝つか、・・・。

 その頃、石松は湯上り機嫌のいい気持で、鼻唄をうたっていた。ふと見ると前に胴巻きを盗んだ道中師ウワバミお新がいる。代参を終った気安さから石松はついお新の美しさにほだされ、好きな酒に酔いつぶれる。だがこのお新から富士川原で次郎長一家と黒駒の大喧嘩を耳にするや、酔いも一気にさめ果てて、ふっ飛ぶように富士川へ・・・。

 富士川原で雌雄を決する次郎長、黒駒の息詰る一瞬。次郎長側の果敢な攻撃に、さしも多勢の黒駒方もたじたじ、大政、小政、鬼吉、法印ら二十八人衆の面々が得意の腕をふるっている。この修羅場に駆けつけた石松は大暴れ。遂に黒駒も倒れた。小岩も大政の手で一刀の下という時、次郎長はそれをおし止めた。黒岩の死骸を戸板にのせて粛々と引上げる小岩ら。それを黙々と見送る次郎長一家。燦然とした朝日がその影を赤々と輝き出し、富士の白峰は美しく照り映えていた。(公開当時のパンフレットより)

青春時代の楽しく懐かしい思い出  山本富士子

 あの当時のオールスターキャスト作品は、必ずといっていいほど、自分の主演映画を撮影中に、スケジュール調整をしながら、並行して撮影をするといった状態でしたから、とにかく徹夜徹夜の連続のような強行スケジュールでした。『次郎長富士』も、そんな中でのお仕事で、とにもかくにも、辛かった。大変だった、という印象が強く残って居ります。長谷川先生、森監督は、私のデビュー映画『花の講道館』でお世話になったお二人です。

 あの頃、私より一年程後に、大映に入ってこられたのが、市川雷蔵さん、勝新太郎さんでした。お二人と私は、同い年で、お仕事もご一緒することが多く、撮影の合間には、本当によくお喋りをし、お互いに将来の夢を語り合ったものです。お二人は、全くキャラクターは違うのですが、共通していえることは、とても明るく楽しい方でした。撮影の待ち時間には、いつも笑わされたり、笑わせたり、話題はつきず、とうとう本番テスト中にも笑いが止まらず吹き出して、監督に大目玉をいただいたこともありましたが、何故か、いつも勝つさんが、真先に叱られる羽目になりました。青春時代のとても楽しい懐かしい想い出です。現在、舞台公演をやる度に、ふと、思うことは、「あゝ雷蔵さんが、生きていらっしゃったら、二人で舞台をやりたかった・・・」と、つくづく残念に思います。

 湯布院映画祭も、今年で、十七回をお迎えになられたとか・・・、回を重ねて来られた蔭には、皆様の大変な御努力と御熱意があってのことと存じます。この映画祭の、今後益々の御発展を心からお祈り申し上げて居ります。(第17回湯布院映画祭08/26〜30/92パンフレットより)

小政の顔は演技じゃない★   本郷功次郎

 始めまして、本郷功次郎です。ご丁寧なお便りを有難う御座いました。私は今でも九州には毎年必ず何回か行きますが、未だ、湯布院と云う町には一度も行った事が有りません。又、失礼な話ですが、17回も重ねられた映画祭の事も知りませんでした。どうぞお許し下さい。

 『次郎長富士』をおやりになるそうですね。この映画は、私がデビューして、確か未だ一年以内の作品だったと思います。多くのベテランに囲まれて、全編コチンコチンにあがっていたのを覚えています。その上、監督の森一生先生がどんな長い立ち廻りのカットでもテストは二回以上やりません。時代劇数本目の私にとって、どのぐらい必死だったかご想像下さい。今は亡き森一生先生は、いつもはとても温厚な、お酒が大好きで、相手を選ばず優しくして下さる、とても人間味の有る、温かいお人でしたが、撮影になると人が変わります。普通はテストを一回やると、「よ〜し、本番〜」と大声を出されます。私は大声で「すみません、テストをもう一度お願いします、未だ覚えられません」とお願いしますと、先生は「よ〜し、本番テスト」(最後のテストの意)と云ってもう一度テストをやらせてくれます。二度テストをやっても、手順はとても頭に入りません。「先生、もう一度テストを・・・」と云い終わらない内に「本番ッ!」の声。ここで、うわァ〜駄目だッと思ったら、間違いなくNGですが、よ〜しッ来いッと開き直って、限界まで緊張、集中しますとそれが出来たんです。

 小政の顔は演技では無く、本当にひきつっているのです。限界まで集中して“やるんだ”と自信を持てば出来ると云う、素晴らしい体験をさせて下さいました森一生監督に、今でも感謝しています・・・合掌。

 どうぞ、本当の映画の面白さを、一人でも多くの方々に伝えて下さい。ご壮健で!(第17回湯布院映画祭08/26〜30/92パンフレットより)

居合抜きで蛾をスパッと  根上 淳

 『次郎長富士』はオールスター映画でとにかくたくさんの役者さんが出ています。ちょうどそのころ伊藤大輔監督、市川雷蔵さん主演の『ジャン有馬の襲撃』という映画を同時撮影中で、そちらの方が忙しくあまりいろいろなことは覚えていないというのが本当です。私の役は滝沢修さん扮する黒駒の勝蔵の用心棒で、ロウソクの所に蛾が飛んで来て火がゆらゆらと揺れるところを、居合抜きで蛾をスパッと切るというシーンは、自分でもかっこいいなと思ったのを覚えています。あまり時代劇には出たことはなかったのですが、次郎長一家の二十八人衆よりも、仇役の二枚目の剣士ということで(忠臣蔵でいえば清水一角のような)私の好きな役でした。とにかくこの映画は好評で、翌年同じ森一生監督で『続次郎長富士』が撮られました。(談) (第17回湯布院映画祭08/26〜30/92パンフレットより)

オールスター映画の面白さ★  内藤 昭

 日本映画の最もはなやかだった頃、各社は毎週二本立て封切りでした。が、多作乱作が続くと企画を始めすべてに疲れがでてきた様で、これではいかんと当時大映が、“大作一本立て”を標榜した第一作がこの『次郎長富士』だったのです。併しこれもあまり続かず、そのうち又二本立てに逆もどりしましたが・・・・。

 この頃は、時代劇映画が戦前から引きずってきたスターシステムがまだ健在で、大映では長谷川一夫を頂点とする序列みたいなものが大へん重要視されていたのです。聞くところによると東映なんかでは、スター二人のアップカットの数や総タイムに差があると問題になった様な時代です。

 オールスター映画としては『忠臣蔵』が有名なのですが、製作費が厖大にかかるので外伝の多い次郎長物が選ばれたのではないでしょうか。配役そのものも序列順ではあるし、女優さんたちに対しても、その人たちのために特別に作った役もある様です。全員いわゆる白ぬりで、どんな暗い所でもそこだけ光っているかの様にライトが当った美男美女たちの競演は、オールスター映画の面白いところです。

 当時の大スターは、その人の顔を撮る角度というものがあって、クローズアップを撮る時にはライティングまで決っていたものです。長谷川一夫がライトマンにライトの位置や強さを指示したのは有名な話です。又、長谷川一夫のクローズアップは、常に顔の右側を主体に撮らないといけないのです。右側の顔の方が美男でキリッとしているということです。他の出演作品を見てごらんなさい。これは忠実に守られています。ということは、フレームの中でいつもカメラの右側を見るとか、左から右へと動くとかしないと右側の顔の絵にはならないのです。美術担当としてはセットを造ることを始めとして、ロケーション地の設定に至るまで、次郎長の出るところはすべて左から右へ動く流れにしなくてはならないのです。それで他の俳優さんの向きは決ってしまいます。

 背の低い長谷川一夫は、足袋の中のかかとに五、六センチのハイヒールを入れてはいていましたが、立ち廻りなどの動きのあるなかで、立止って形をつける所に一段高い場所を作っておいて、その上で見栄をきる様な芝居ができるようにするなど、周囲の中でどうやったら目立つようになるかとスタッフもいろいろ考えたものです。

 森監督はあまりこれらのことは頓着しない方ですが、主役級の俳優たちをまんべんなく立てるようにするには並大抵のことではなかったことでしょう。この作品は私の大映での百本近い担当作品の中で、森監督とは、四本しかやっていない中の一本で、その意味では意義深いものですが、今思い返すと、ただセット杯数がヤケに多い映画で、セットを考えて建てるだけで精一杯で、大へん忙しかった記憶だけが残っている作品に過ぎません。(第17回湯布院映画祭08/26〜30/92パンフレットより)

 おなじみ次郎長伝の一席。子分の兄の仇を討たせに安五郎の賭場に行った次郎長は、そこで黒駒の勝蔵に会う。神域を血で汚したという勝蔵側の提訴で、次郎長は役人の手を逃れて旅に出る。後日、浜松の貸元の跡目相続の席上、次郎長の人気を憎んだ勝蔵は卑劣な嫌がらせをやる。

 かくて富士川の決戦までを、次郎長対勝蔵の闘争に大きく絞って、一本の背骨を通した脚色法は一応見られる。しかしエピソードとして挿入した悪代官の横恋慕をこらしめる件や、お蝶にお伴した石松が女道中師に胴巻を盗まれてお蝶発病などは運びが下手で、道草を喰いすぎる。また仁吉と女房との離縁の件も、まことに平板な発想なので、市川雷蔵と若尾文子をもってしても、なんの感情も湧かない始末。

 ただ清水の二十八人衆が府中の盆を盗んだ安五郎を追って、農家を焼く場面は描写がすぐれている。ヤクザの私闘が庶民の生活とは無縁のものであることをはっきりさせる。これを知った次郎長が怒って二十八人衆にワラジをはかせるところに、彼の政治性が見られる。次郎長役の長谷川一夫はまずまずの出来。

 一本立てに踏切った大映の勇気は壮とするに値する。東映の娯楽チャンバラに対抗するため、オール・スターで(有効には使っていないが)総力をあげた意気ごみだけは、森一生の演出を越えて画面にはみ出している。興行価値:オール・スターの魅力と、一本立低料金が成功して、全国的にヒットした。(キネマ旬報より)

あらすじ

 おなじみ清水次郎長伝の詰め合わせ。@次郎長(長谷川一夫)と黒駒の勝蔵(滝沢修)出会いの場 A枡川仙右衛門兄の仇討 B旅に出た次郎長を追う女房お蝶(近藤美恵子)とお供の石松(勝新太郎)の道中。石松が女スリ(山本富士子)に一パイ食わされる珍談 C次郎長帆下田の久六を切るの件 D女侠客(京マチ子)次郎長と黒駒のケンカを仲裁する E清水二十八人衆(大政・黒川弥太郎)黒駒身内ドモ安を切る F吉良の仁吉(市川雷蔵)の巻。お菊(若尾文子)離別から荒神山の血煙まで G石松代参、三十石船スシ食いねェ、および女スリ再会のこと H桶屋の鬼吉(林成年)早オケかついで黒駒へ果たし状をつけるの段 H大詰、富士川の決戦。

短評

 これだけの物語をつぎつぎご覧にいれる。つまりサワリ集というわけだが、しろうとの浄瑠璃みたいにホンの形だけのもの。まずい一品料理をならべたるがごとし。サワリというには口はばったい。まず場面の感情がスッポ抜けている。ために次郎長も仁吉も生きた人間になっていない。つぎはだいじなスピード感がにぶい。だからさわやかさをおぼえない。第三はユーモアにとぼしい。浪曲も講談もうまく笑いをまぜるのに映画は笑いがとまる。どうせキマジメでは向えぬ企画、森一生演出はうんとくだけるべきところだった。「笑いの素」石松にしても三十石船は虎造以下、女スリとの飲み比べもくふうに反し新味がない。石松が殺されず、元気で富士川にかけ参ずるのが最大のギャグといったところか。スターの顔はそろえたものの、はなやかさもたのしさも案外うすい。(君島逸平 西日本スポーツ 05/25/59)

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 清水の次郎長 文政3(1820)年、駿河国有渡郡清水町美濃輪町(後の静岡県静岡市清水区)の船持ち船頭・高木三右衛門(雲不見三右衛門)の次男に生まれる。母方の叔父にあたる米穀商の甲田屋の主山本次郎八は実子がなく、次郎八の養子となった。幼少時代の仲間に「長」(正式の名称は不明)という子供がいたために周囲が長五郎を次郎八の家の長五郎、次郎長と呼び、長じてからも呼称されることになったという。

 清水港は富士川舟運を通じて信濃・甲斐方面の年貢米を江戸へ輸送する廻米を行っており、清水湊の廻船業者は口銭徴収を主とする特権的業者が主であったが、次郎長の生まれた箕輪町は清水湊(清水港)における新開地で、父の三右衛門はと異なり自ら商品を輸送する海運業者であった。また、叔父の次郎八は米穀仲買の株を持つ商人であることからも、三右衛門は次郎八を通じて米穀を輸送していたと考えられている。

 養父の次郎八は天保6(1853)年に死去し、次郎吉は甲田屋の主人となる。次郎長は妻帯して家業に従事するが一方では博奕を行い喧嘩も繰り返しており、天保14(1843)年、次郎長は喧嘩の果てに人を斬ると、妻を離別して実姉夫婦に甲田屋の家産を譲ると江尻大熊ら弟分とともに出奔し、無宿人となる。諸国を旅して修行を積み交際を広げ成長した次郎長は清水湊に一家を構えた。この時代の次郎長の事跡については明治初期に養子であった天田五郎の「東海遊侠伝」に詳しい弘化4(1947)年には江尻大熊の妹おちょうを妻に迎え、一家を構える。安政5(1858)年12月には甲州における出入りにおいて官憲に追われ、逃亡先の名古屋で保下田久六の裏切りに遭い、安政6(1859)年には尾張知多亀崎乙川において久六を斬殺する。その後は富士川舟運の権益を巡り甲州博徒と対立し、黒駒勝蔵と抗争を繰り広げる。

 慶応4(1868)年3月、東征大総督府から駿府町差配役に任命された伏谷如水より街道警固役を任命され、この役を7月まで務めた。同年8月、旧幕府海軍副総裁の榎本武揚が率いて品川沖から脱走した艦隊のうち、咸臨丸は暴風雨により房州沖で破船し、修理のため清水湊に停泊したところを新政府海軍に発見され、見張りのため船に残っていた船員全員が交戦により死亡した。その後逆賊として駿河湾に放置されていた遺体を、次郎長は小船を出して収容し、向島の砂浜に埋葬した。新政府軍より収容作業を咎められたが、死者に官軍も賊軍もないとして突っぱねたという。当時、静岡藩大参事の任にあった旧幕臣の山岡鉄舟は これを深く感謝し、これが機縁となり次郎長は明治において山岡・榎本と交際を持ったとされる。

 博打を止めた次郎長は、清水港の発展のためには茶の販路を拡大するのが重要であると着目。蒸気船が入港できるように清水の外港を整備すべしと訴え、また自分でも横浜との定期航路線を営業する「静隆社」を立ち上げている。この他にも県令・大迫貞清の奨めにより静岡の刑務所にいた囚徒を督励して現在の富士市大渕の開墾に携わったり、私塾による英語教育の熱心な後援をしたという口碑がある。ただし血腥い事件も彼の周辺で起こっており、次郎長不在中に久能山の衛士に3番目の妻を殺されている。また有栖川宮に従っていた元官軍の駿州赤心隊や遠州報国隊の旧隊士たちが故郷へ戻ってきた際には駿河へ移住させられた旧幕臣が恨みを込めてテロ行為を繰り返す事件が起き、次郎長は地元で血を流させないために弱い者をかばっている。

 明治26(1893)年、風邪をこじらせ死去。享年74(満73歳没)。戒名は碩量軒雄山義海居士。(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

 

 

 

 

 

次郎長生家

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