命を賭ける男
1958年4月29日(火)公開/1時間42分大映京都/カラーシネマスコープ
併映:「愛河」(田中重雄/若尾文子・川口浩)
企画 | 浅井昭三郎 |
監督 | 加戸敏 |
脚本 | 八尋不二 |
撮影 | 牧田行正 |
美術 | 上里義三 |
照明 | 加藤庄之丞 |
録音 | 大谷巌 |
音楽 | 鈴木静一 |
助監督 | 黒田義之 |
スチール | 小牧照 |
出演 | 長谷川一夫(幡随院長兵衛)、川口浩(白井権八)、山本富士子(おきぬ)、近藤美恵子(おあい)、浦路洋子(小紫・一重)、田崎潤(坂部三十郎)、舟木洋一(本庄助八)、月田昌也(半間の半次)、見明凡太郎(本多出雲守)、潮万太郎(小仏小平)、伊沢一郎(夢の市郎兵衛)、清水元(放れ駒四郎兵衛)、沢村宗之助(大久保彦八)、徳川夢声(講釈師竜玉斎)、浦辺粂子(おとよ)、清水将夫(松平伊豆守) |
惹句 | 『血の雨ふらす三人男!惚れて、恋して、斬りまくる!』『大江戸の人気を二分して 白柄組と町奴の決戦迫る黄金時代劇』 |
◆ 解 説 ◆
表面は天下泰平の江戸の町だったが、外様大名にくらべて次第に冷遇されるようになった旗本達の憤懣が爆発し、なかでも水野十郎左衛門を筆頭とする白柄組と幡随院長兵衛を頭とする町奴の対立は日増しに激しさを加えるだけだった。
個人的には町人・長兵衛の偉大さに心うたれていながらも、自から槍をとって彼を殺さねばならなかった十郎左衛門はまた、自分を父の仇とねらう腰元あいとの悲恋に苦悩する悲劇の男でもあった。なおこの映画は雷蔵さんにとって四十四本目の作品です。(映画ファン58年6月号より)
(長谷川の着る浴衣には水野の家紋「澤瀉に水」が染め抜かれている)
大映スコープ・大映カラー、脚本はベテラン八尋不二、監督は『遊侠五人男』の加戸敏。出演者は、長兵衛に長谷川一夫、十郎左衛門に市川雷蔵、権八には『江戸っ子祭』についで時代劇出演の川口浩、女優は山本富士子、近藤美恵子、浦路洋子など。更に田崎潤、徳川夢声、浦辺粂子、清水将夫などが助演する娯楽大作である。(キネマ旬報より) |
依然「黄金週間」は映画界の書き入れ時だった。長谷川一夫の幡随院長兵衛に雷蔵の水野十郎左衛門。川口浩が白井権八で参加している。一つ面白い話がある。この題名『命を賭ける男』を電通にたのんで、いわゆる「マーケット・リサーチ」を行った。その結果、若い世代の大部分が、オートバイレースの映画だろう、と回答した。大映は、新しさということに、時々、狂気のようにつかれることがあつた。(「侍・市川雷蔵その人と芸」出演作品とその解説 辻久一より)
◆ 物 語 ◆
江の島に参詣に出かけた白柄組坂部らは、その帰途、通りかかった色若衆に喧嘩を吹っかけた。だが、若衆は案外手ごわかった。この修羅場へ駕籠をのりつけたのが、幡随院長兵衛である。長兵衛の扱いに、坂部らは悪態残して立去った。この若衆は、因州で女のことから本庄助太夫を斬り立退いてきた白井権八である。彼の気っぷに惚れこんだ長兵衛は、自分の許に引き取った。
長兵衛の家に入った権八に、何かと世話をしてくれる女があった。この娘、おきぬといい。長兵衛の主筋にあたり、女気のない一家をきり回す勝気な女だった。権八は子分らに連れられ吉原へ出かけた。権八は、初恋の女に瓜二つの小紫の座敷へあがった。その小紫を呼んだのが、坂部らだった。彼らは小紫が来ないのに業をにやし座敷へ押しかけた。騒ぎが大きくなろうとした時、現われたのが長兵衛。その水際だった扱いに呆然とする坂部らの後から姿を見せたのは、白柄組の頭領水野十郎左衛門である。水野のさし出す大鯛をぐっと咥えた長兵衛の平然たる態度に、この場はことなくすんだ。
ある夜、権八は小紫の許からの帰途、仇討に出てきた本庄助八を発見、返り討ちにした。返り血を浴びた衣裳を見とがめられ、長兵衛に卑怯なふるまいを詰問された権八は彼の家を飛び出した。彼はその足で小紫を訪れ、つきぬ別れをした後、本庄助七への決闘状を認めた。
秋葉カ原。権八の前に現れたのは助七を先頭にした因州藩士数名。凄絶な死闘が展開した。ようやく助七を水野屋敷前で討ち果したが、白柄組の連中に発見され、捕われた。坂部らは、早速使いを長兵衛の許に走らせた。長兵衛はおきぬを呼び寄せ、別れの盃をかわして単身死地に赴いた。
水野は権八を解き放ち、長兵衛と一献傾けようと思い、まず長兵衛を湯殿へ案内させた。水野の処置に不満の坂部らは、この時とばかり長兵衛を襲撃した。この騒ぎを聞いた水野は、長兵衛を殺すなら己が手でと槍をとった。今はこれまでと覚悟した長兵衛は、われとわが胸に槍をつきたてた。
積み重なる不行跡を見るに見かねた幕府は、白柄組に死の断を下した。長兵衛の貴重な死が、江戸市民に平和をもたらしたのである。(キネマ旬報より)
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幡随院長兵衛(ばんずいんちょうべえ)元和8(1622)年 - 明暦3(1657)年
歌川国芳 「国芳もやう正札附現金男・幡随長兵衛」
江戸初期の町奴。日本の侠客の元祖とも言われ実在の人物だが、芝居等の作品で有名。本名は塚本伊太郎。肥前唐津の武士・塚本伊織の子で、幡随院(京都の知恩院の末寺、その後焼失し現在は、小金井に移っている)の住職向導に私淑し、その裏に住んでいたため、幡随院長兵衛と呼ばれるようになり、奉公人を周旋する口入れ業に従事していたといわれている。
当時の江戸では、町奴と呼ばれる任侠の徒が横行し、また、大小神祇組という旗本奴も市街を乱していた。やがて、長兵衛は町奴の頭となり、男伊達を競って乱暴を働く旗本奴と対立した。明暦3(1657)年にはその旗本奴の頭領、水野十郎左衛門に湯殿で殺されたとされる。歌舞伎、講談の題材に盛んに使われ、中でも「極付幡随長兵衛」が有名。
墓所は、東京都台東区東上野六丁目の源空寺にある。
舟型光背の地蔵菩薩立像の幡随院長兵衛墓(左)と妻きん墓(右)
水野 成之(みずの なりゆき)寛永7(1630)年- 寛文4(1664)年
江戸時代、前期の旗本。水野成貞(備後福山藩主水野勝成の子)の長男。母は徳島藩主蜂須賀至鎮の娘、萬の方(正徳院)。幼名は百助。通称は十郎左衛門。諱は当初貞義、のちに成之。長姉は蜂須賀家家臣の賀嶋長門政玄室、次姉蜂須賀家家臣の稲田主税植春室。弟に水野忠丘、妹に蜂須賀家家臣の山崎小八郎幸玄室。子女は、百助、蜂須賀家家臣の賀嶋隠岐重卿室。
慶安3(1650)年3000石で小普請組に列した。旗本きっての家柄でありしかるべき役に就けるがお役入りを辞退して自ら小普請入りを願った。翌16慶安4(1651)年将軍徳川家綱に拝謁した。
江戸市中で旗本奴である大小神祇組を組織、家臣4人を四天王に見立て、綱・金時・定光・季武と名乗らせ、用人頭(家老)を保昌独武者と名づけ、異装で闊歩し、暴行の限りを尽くした。また、旗本のなかでも暴れ者を仲間にし、中には加賀爪直澄や坂部三十郎などの大物も混じっていた。これらの行状から町奴と対立し、明暦3(1657年)7月18日、幡随院長兵衛を殺害した。
成之はこの件に関してお咎めなしであったが、行跡怠慢で寛文4(1664)年3月26日に母の実家蜂須賀家にお預けとなり、翌日に評定所に召喚されたところ、月代を剃らず着流しの伊達姿で出頭し、あまりにも不敬なので即日切腹となり、2歳の嫡子百助も誅されて家名断絶となった。この時、弟の水野忠丘は、母とともに蜂須賀家に預けられ、元禄元(1688)年に赦され、元禄13年に小普請入りし、翌年500俵を給され旗本となり家名は存続した。(フリー百科事典ウィキペディア Wikipediaより)
歌舞伎では、「幡随院長兵衛精進俎板(ばんずいちょうべえしょうじんまないや)」や「極付幡随長兵衛(きわめつきばんずいちょうべえ)」などが有名。(歌舞伎では、幡随院と書いてバンズイと発音することが多い)
【極付幡随長兵衛】きわめつきばんずいちょうべい
明治14(1881)年九代目團十郎によって初演、河竹黙阿弥の作品。その後、明治24年三世河竹新七によって序幕部分に公平法問諍(きんぴらほうもんあらそい)が加えられ、今日に至っている。幡随院長兵衛が出てくる芝居では、水野屋敷に向かう時の「人は一代(でえ)名は末代(でえ)の幡随院長兵衛・・」と、四世鶴屋南北作の「御存鈴ヶ森」(浮世柄比翼稲妻・鈴ヶ森の場)での白井権八との出会いでの「お若けえの、お待ちなせえやし」の聞かせセリフが有名である。
極付(きわめつき)の「極」とは書画・刀剣などの鑑定書のことで、「おり紙付き」とも云い、芝居ではある俳優の演技が誰よりも優れていると定評のある役柄を云う。幡随院長兵衛は先代吉右衛門が当たり芸にしており、最後に長兵衛が殺されるのが湯殿(風呂場)なので「湯殿の長兵衛」という通称で呼ばれたりもする。この他幡随院ものでは「幡随院長兵衛精進俎板(ばんずいちょうべいしょうじんまないた)」が有名。なお、当代吉右衛門の初舞台は昭和23年(当時萬之助)の「俎板長兵衛」の倅長松。
この「極付・・」は幕が開くと劇中劇から始まり、観客席が舞台の一場面になるのは他にはちょっと見ない趣向で、ひいきの役者が身近で見られるため、その通路の人は幸運であるといえる。外題に幡随院の「院」の字が無いのは「外題は奇数」のしきたりから来ている。名前には幡随院長兵衛と「院」の字が入る。
江戸っ子の侠客のいさぎよさをスカッと見せる人気狂言で、江戸300年の歴史で一番人気があったと云われている。身分の厳しい封建時代の観客(町人)はこの芝居を観て、溜飲を下げていたと思われる。
【極付幡随長兵衛】 あらすじ
芝居小屋村山座の舞台では、坂田金平が悪上人と法の問答をするという「公平法問諍(きんぴらほうもんあらそい)が演じられていたが、芝居の佳境に入った時、旗本奴の白柄組が芝居を壊しにやって来る。そんな無法は許せないと、客席から立ち上がったのは町奴の幡随院長兵衛。切り付けて来る相手を反対に打ちすえてしまう。そんな一部始終を桟敷席で見ていたのは、白柄組の頭領水野十郎左衛門だった。
長兵衛の家では女房のお時をはじめ子分達も、白柄組が何時仕返しに来るかと不安。そこへ水野の屋敷から「酒宴を催すから来てくれ」と使いがやって来る。弟分の闘犬権兵衛が身代わりを申し出るが、これを制して、恐れをなして逃げたとは云われたくないと後事を託し、子分達に早桶(棺桶)の準備を云いつけて死を覚悟で出かけた。
水野の座敷で機嫌よく酒を飲み交わすうち、長兵衛に酒を無理強いしてわざと酒をこぼしてしまう。そして、濡れた袴を乾かす間、一風呂浴びるように強引に進められ、長兵衛が浴衣に着替えて湯船に入ろうとした時、水野の家来が襲いかかった。挙句の果てには背後から襲われ、水野に槍でわき腹を深く突き刺されてしまう。この時、長兵衛の子分達が早桶を担いで到着するが、水野は「殺すも惜しい」と呟くのだった。
この芝居の今日の原型は「思花街容性(おもわくくるわかたぎ)」で、大坂角座で並木五瓶が脚本を書いたもの。大坂は町人の街だから寺奴より町奴の方がいいだろうとの考えであった。享和3年桜田治助が江戸中村座で「幡随院長兵衛精進俎板」を書き、大きな俎板の上で長兵衛が大の字に寝て、「切るなと突くなと勝手にしなせえ」と大見得を切るものに変えた。原作が江戸ではなく上方だったとは意外な話である。