ジャン・有馬の襲撃
1959年7月12日(日)公開/1時間54分大映京都/白黒シネマスコープ
併映:「獅子と蝶と赤い絹」(記録映画)
製作 | 三浦信夫 |
企画 | 浅井昭三郎 |
監督 | 伊藤大輔 |
脚本 | 伊藤大輔 |
撮影 | 今井ひろし |
美術 | 西岡善信 |
照明 | 中岡源権 |
録音 | 大角正夫 |
音楽 | 飯田三郎 |
助監督 | 渡辺実 |
スチール | 藤岡輝夫 |
衣裳考証 | 上野芳生 |
エスペラント指導 | 梅棹忠夫、藤本達生 |
出演 | 叶順子(鶴姫)、根上淳(長谷部兵庫之允)、山村聡(小畑三郎兵衛)、千葉敏郎(高橋主水)、三島雅夫(徳川家康)、坂東蓑助(本多上野介正純)、舟木洋一(仲添)、弓恵子(小寿々)、エリス・リクター(クラーラ)、伊沢一郎(則近)、ピーター・ウィリアムス(船長カストロ)、ジェリー・伊藤(士官ミランド)、山茶花九(桂通斉)、石黒達也(谷川五十馬)、清水元(勝島与十郎) | 惹句 | 『飛ぶ血汐か、黒船の飛沫か、海の大名ジャン有馬の豪剣、宿怨の異国船上に鞘走る!』『死か、復讐か、外国船に躍る日本刀の斬れ味 史上不滅の大襲撃を描いて壮絶無比!』『火柱よ天を焼け!炎お暗黒の海を照らせ!猛襲また猛襲!復讐に燃える若き海の暴れ大名!』『日本史上初の黒船焼打ち事件を雄大なスケールで描く海上スペクタクル巨篇』『不逞の蛮船に決然と斬り込む海の暴れ大名!』 |
か い せ つ
大映では、大作一本立て方針を打ち出し、量産の映画界に波乱を呼んでいるが、これは時代劇若手トップを行く、人気最高の市川雷蔵を主演に、ベテラン、伊藤大輔監督がみずからシナリオの筆をとる野心作である。
話は慶長十四年、御朱印船華やかしり時のこと。ポルトガル領マカオに起った日本人虐殺と御朱印船砲撃に怒った九州有馬のキリシタン大名、有馬晴信の、黒船焼打ち事件の史実に取材して、幾つかのエピソードを加えた勇壮なものである。
出演者は、この晴信にはもちろん雷蔵が、更に叶順子、根上淳、弓恵子のほか、山村聡、三島雅夫、坂東蓑助、千葉敏郎、石黒達也、山茶花究、それに外人スターのエリス・リクターなど多彩。( キネマ旬報より )
☆物語は、1609年家康のころ、日本の南方貿易の拠点であったポルトガル領マカオにおける日本人虐殺、御朱印船焼打ち事件に端を発し、たまたま長崎に入ってきたこのポルトガル船を、こんどは反対に九州のキリシタン大名・有馬晴信が勇敢な奇襲を加えて焼打ちに成功、蒙古襲来以来最初の外国との接触というので有名なこの歴史的事件を中心に、幾つかの史実をアレンジしたもので、映画では仮想のイベリヤ王国を設立し、あくまでフィクションとして扱っています。
☆配役は、主人公有馬晴信の市川雷蔵のほか、まず大映現代劇のホープ叶順子が、家康の孫娘鶴姫にふんし、『日蓮と蒙古大襲来』以来二度目の時代劇で雷蔵と初のコンビを組むが、さらに『山田長政・王者の剣』『次郎長富士』とこのところ京都作品で大活躍の根上淳が長崎奉行長谷部兵庫允の役で引続き時代劇に出演、伊藤大輔の前作『女と海賊』でユニークなデビュー振りをみせた新星弓恵子が、伊藤監督の期待を担って再び小寿々の大役で登場します。また、山村聡が二年振りで大映京都に出演するほか、三島雅夫、阪東蓑助、千葉敏郎、石黒達也、山茶花究といったベテラン演技陣に、エリス・リクターなど多数の外人が出演して一だんと異彩を放っています。
☆なおスタッフは、製作三浦信夫、企画浅井昭三郎に、脚本・監督を時代劇巨星伊藤大輔が、またカメラは名手今井ひろしがそれぞれ野心を秘めて当るほか、日本映画では初登場というエスペラント語の指導のため大阪市大助教授の梅棹忠夫氏と関西エスペラント連盟の藤本達生氏が加わって問題作にふさわしい堂々の布陣を見せています。(大映京都作品案内593より)
有馬家の家紋
も の が た り
慶長十四年(1609年)陰暦正月−イベリヤ王国の極東植民地珠江市において、十人の日本人が目かくしをされたまま銃殺の刑に処せられた。その殆どは御朱印船の水夫たちだが、なかには小寿々と呼ぶうら若い女性の姿もまじっていた。彼女は前非を悔いて、恭順の意志を表せば、死刑を赦免されるという最後の機会が与えられたが、敢然としてこれを退け、ついに刑場の露と消えて行った。
しかもイベリヤ兵は、助命と処刑中止を叫んで投石した日本人居留民に対し、乱射を浴びせるとともに、要塞の大砲は日本人街に向って猛然と火を吐いた。次いで砲撃は、港内に停泊中長崎有馬藩の御朱印船にも命中、これらのイベリヤ側のあくなき暴虐により、多くの同胞は殺傷するか、さもなければ奴隷としてイベリヤ船の船底につながれた。これは、日本の南方貿易における足場を失わせるに十分な武力行使であった。
舞台は日本へ− イベリヤ船ラ・パトリーノ・デ・デイオ号は、凡そ二十五日の船程で長崎へ入港した。船長カストロは、珠江事件を日本人の暴動であると申立て、船牢につながれた小畑三郎兵衛を生き証人として、家康に会って損害賠償と謝罪さえ要求しようとしていた。三郎兵衛は有馬藩御朱印船の宰領であり、また珠江日本居留民の総取締でもあった。長崎奉行長谷部兵庫之允は、ことの次第を知りいたく心痛、駿府家康公のもとへ早馬を仕立てるとともに有馬晴信へも急使を立てた。
有馬家累代の居城日之江城は、島原半島の南端口ノ津にあり、当主修理大夫晴信は、洗礼名をジャン・プロタシオと称し、九州における熱烈な切支丹宗門の庇護者であった。三郎兵衛の娘クラーラは碧眼の混血児で、晴信の保護のもと、教会堂で父の帰りをまちわびていた。晴信は三郎兵衛が異国人の虜となって生き恥をさらして帰ってきたからには、相応の理由があるに違いないと考え、真相究明のため、イベリヤ一行が三郎兵衛を伴って駿府へ赴く途中を狙って、彼の身柄を見事に奪還した。
さらに舞台は駿府へ。イベリアの珠江総督マトーン、仕官ミランダらは通辞三浦按針を通じ、日本人の珠江居留と御朱印船の寄航を禁止、合わせてイベリア国王に対する謝罪の印しを家康の家臣本多正純に求めるとともに、国王からの贈物として珍奇な献上品のほか、かねて大御所家康公懇望のアラビヤ産の白馬を奉じた。
一足おくれて駿府を訪れた晴信は、珠江おける日本人虐殺の真相を家康に訴えた。それによれば − ことのおこりは、この正月デイオ号船上において新年宴会が開かれた際、居留地より招かれた日本人の中に小寿々とい呼ぶ娘がいたが、かねて彼女に目をつけていた船長のカストロが、彼女に襲いかかろうとして起こったことにあった。カストロの毒牙から逃れようとして、彼女が国旗の繋留索にふれたため、イベリヤ旗がほどけ落ちたが、彼女の危機を遠眼鏡でみていた御朱印船の水夫たちが救い出そうとしたことから、ことは次第に大きくなり、国旗侮辱という事実無根の罪状をでっち上げて十人の日本人を処刑し、さらに居留民の暴動を口実に、日本人の勢力を南方から駆逐して、支那大陸との貿易の利潤を独占しようというのがイベリヤの悪辣な計略であると家康に説くのだった。
やがて、献上のアラビヤ駿馬にまたがる士官ミランドとの技くらべで、ミランドの卑劣な妨害にもめげず、見事勝利を収めた晴信は、家康のいう褒賞として、デイオ号に監禁されている二十三人の日本人奴隷の解放と部下はの復讐を願い出たが、徳川の天下とはいえ、西に大阪城が健在なるいま、外国とことを構えることを恐れた家康は言下にこれを退け、かねて晴信に思いを寄せている孫娘の鶴姫では二十三人の引き当てにならぬかと謎をかけた。が、意外にも晴信は困惑の態だった。
ほどなくして、デイオ号は広東に内乱起るの知らせにより、珠江事件の交渉を後日に譲って、長崎出港を急いだ。大御所の命にそむいても、あくまで黒船襲撃の計画をすてぬ晴信は、これにより直ちに決断を余儀なくされた。家康も長崎奉行の兵庫之允も、止めて留るような晴信でないことは百も承知であったが、決行は明らかに晴信の身の破滅を意味するものである。しかし晴信は全家臣に総登城をかけ、決意のほどを披瀝した。伝馬船二艘をつないだ上に櫓を組み立て、これを漕いでデイオ号の甲板に乗り移ろうという彼の作戦である。
夜を日についでの作業が始められた。しかしデイオ号出港の知らせに一同はすっかり力を落したが、五島列島を突切るディオ号の前途は天下の難所といわれる橋杭の瀬戸があった・・・そしてディオ号は晴信たちの万に一つという願いがかなって橋杭岩に座礁したがこれは兵庫之允が水先案内としてディオ号に乗せたパウロ・王の晴信に対する最後の御奉公とでもいうべきものであった。パウロ・王は晴信の保護のもとにあった明国の亡命者で、長きにわたる晴信の恩義に報いるための決死的最後の手段だったのである。王は甲板上でイベリヤ兵によって銃殺された。
しかし一たん座礁したデイオ号も、次の満潮で離礁するという心配から、晴信たちは寸刻を争わねばならない。晴信の率いる井桁船団はデイオ号を遠巻きに接近したが、船足は遅々として進まなかった。
この時、三郎兵衛は、今はこれまでとすべてを決意、単身デイオ号に乗りこみ、過日の珠江事件の責任者として、謝罪のため日本の武士たる作法により見事に割腹し果てようとした。これはディオ号を時間一ぱいまで釘付けしようという三郎兵衛の作戦であったが、時をかせぐというには余りにも悲壮な最期だった。イベリヤ人たちがハラキリ見物に気を奪われているうちに、晴信らの船団は、折からの霧にまぎれて次第に接近、また別の一隊は船腹をくり抜いて、船倉につながれる日本人奴隷たちを一人一人小舟に移すとともに支那人や黒人にも救出の手がさしのべられた。
満潮とともにやがてデイオ号に離礁するときが来たが、時すでにおそく、有馬の船団は目前に迫り、時をうつさず、晴信を先頭に果敢な斬込みが敢行されたが、全員救出の声とともに、一同は勝鬨をあげて引揚げた。火を噴くディオ号はやがて爆沈したが、この成功のかげに、いけにえとなって散って行ったパウロ・王と三郎兵衛に対する敬虔な十字が晴信の胸に切られるのだった。役目柄にもかかわらず長崎港外にディオ号を導き、王を介して襲撃の側面的援助をおしまなかった長崎奉行の兵庫之允は、家康の旨を体し、 晴信の遠流の地への道づれに、鶴姫を伴ってきたのだが、彼女の差出す懸香だけを受取り、城とも家来とも別れ、一人淋しくいづこかの地に赴くのだった。(大映京都作品案内593より)
1609年ポルトガル領マカオに日本人虐殺と御朱印船焼打ち事件が起り、長崎に入ったポルトガル船を大名有馬晴信が焼打ちした事件を脚色したもの。歴史映画というよりも一種の復讐物語で、大衆向きのスペクタクル作品。ポルトガル人を悪玉として描くので、イベリアという仮想国名にし、言葉はエスペラント語を使用。この配慮も、慣れぬ言葉を使うため外人までがセリフに気をとられすぎる結果を生じている。
トップの珠江における銃殺場面は、だらしない外国軍隊という設定にしても、演出の切れ味が至って悪い。この程度ならば、晴信が家康に物語る部分に簡潔に挿入した方が効果的であろう。イベリア側の要求をいれる家康は、豊臣との武器通商を恐れるといいわけしているが、当時の国内・国外情勢を説明する必要がある。さもないと、家康の命令を無視した晴信の行為は、全く私的な暴挙のような印象を与え、外国船焼打ちの結果は大陸にいる日本人たちを更に窮地に追いこむことになりそうである。
晴信の信仰する切支丹は相当戦闘的なもののようだ。このような復讐や殺人が許されるものかどうか、この宗門の性格も説明の必要があろう。もっとも気になるのは、晴信の口から出る「日本のため」という言葉である。この国威高揚と外敵討つべしのスローガンは、戦時中嫌になるほど吹きこまれたものだ。外人を叩き斬った当時の時代物と同じ精神だ。違うところは、他の外人奴隷を救出するというヒューマニズムだけである。
伊藤大輔は最後の乱闘や三郎兵衛の割腹場面に彼らしい迫力をみせるが、期待したような歴史映画の新しい道を開拓し得なかった。この作品を若い観客がどのように受けとめるか、疑問である。新しい時代に対処するためにも、若い世代の人を脚色に参加させることを進言する。興行価値:時代感覚の相違はおおうべくもない。封切成績も悪い。(キネマ旬報)
工夫こらした時代劇 |
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風格ある『ジャン・有馬の襲撃』 |
日本が東南アジア諸国と貿易をはじめていた慶長年間、その進出をねたんだイベリア国が極東植民地で日本人居留民を虐殺、港内に停泊する有馬藩所属の御朱印船を襲撃する。イベリア国はさらに幕府の謝罪を求め、居留民を奴隷として軍船につなぎ長崎に押しかけたが、有馬藩主晴信(市川雷蔵)はやっと救いだした御朱印船宰領(山村聰)からイベリア側に非のあることの真相を知る。そこで逆に奴隷を解放するよう強硬な談判を幕府にのぞむがいれられず、意を決した晴信は国の面目のためイベリア船を長崎港外に焼打ちする。脚本、監督伊藤大輔。
実際にあったポルトガル船焼打ち事件をひとひねりしたニューストーリー時代劇版という感じのもの。晴信は有名なクリスチャン大名で、ジャンはその洗礼名である、伊藤監督はイベリア人になる俳優たちにエスペラント語を使わせ、また切支丹の歌、儀式を荘厳に描くことで一種異様なふん囲気をたくみにかもしだす。物語自体も薄ってぺらではなく、藩がつぶされるのを承知の上で、イベリア船を襲わざるをえない当時の国情や、人の心の動きが風格をもって描かれている。
雷蔵は彼が工夫したという独特の前髪姿もよく似合って、気品と覇気をもつ若い藩主を気持ちよさそうにやっている。これで藩主、クリスチャン双方の立場からくる悩みがもっと深いところで表現されていたら満足だが、その点はいま一息で脚本も甘い。
社会機構をみる目はかなり冷たいくせに、登場する人間となると家康(三島雅夫)にしても、影ながら晴信に力をそえる長崎奉行(根上淳-好演)にしてもみな理想化されているのは妙な話だ。この辺がまあ“中間時代劇”の限界なのだろう。焼打ち場面のチャンバラはさすが伊藤監督だけにいろんな工夫をこらして、かなり楽しめるものに仕上げている。山村聰をはじめワキ役をベテランで固めたのもみられる作品になった一因だ。準佳作、1時間54分。ワイド。大映。 (人見嘉久彦)
伊藤監督と
大映には企画審議会の制度があり、プロットの形で提出された企画が検討される。尚、「一切、史実には拘泥せず、お盆作品として、面白い娯楽映画に徹すること」という条件つきで製作の決定を見ている。
士官ミランドを演じたジェリー・伊藤さんにこのビデオを差し上げたところ、みわへお手紙をいただきました。(ジェリー伊藤さんは夫人の花柳若菜さんとマリナ・デル・レイにお住まいでしたが、2007年7月8日に肺炎のために亡くなられました。享年79歳、合掌。) |