演技のモデルと難しさ

僕、なんか最近解らないんだけど、演技をする場合にね、現在いる、例えば、長谷川先生とか、雷ちゃんとか、錦ちゃんとか、そういう人達をモデルに頭の中に入れた方がよいのか、それとも、例えば、電車に乗って見ると、新聞を読んでる人、外を見ている人など、それぞれ違った表情をした人が何十人もいるでしょう。そういう人達のモデルを頭に入れた方がいいのか、ちょっと解らないんだ。僕は今まで、現在いる俳優さんのモデルを頭に入れていたんだ。で、あの人ならこうする、この人ならこうするとか考えていたんだ。最近そういうのをなるべく避けて、そのモデルを、役者ぢゃない、普通の人を頭に入れてやっているんだ。その方がいろんなモデルを自分は持っているということになるから。

市川 演技をどこから、引っ張り出すかということは、なかなか難しい問題だね。しかし、人の真似をするのはよくないだろうな。だから人によっては、人の芝居は全然見ないという人もあるわね。その人の良いにつけ、悪いにつけ、そういうものが頭にあると、自分が芝居をしている時に自分の素直な演技が出来ないのでよくないという、一つの理論があるわね。やっぱり、真似はよくないと思うね。

最近ね、僕もその真似ということから離れたのは。僕はどっちかというと、直ぐ真似の出来ちゃうほうなんだ。しかし、最近はいろんな役をやって来て、人の真似だけではとても追っ付かないものがあるんだな。例えば「大阪物語」とか、石松になるとね。しょうがないから、自分で考えてやる。すると、その方が良いんだな。そこで、今までのモデルではいけないんだなと始めて気が付いたわけだ。

市川 僕は武智(鉄三)さんのところで、いろいろと勉強して来たんだけど、歌舞伎でも武智さんの歌舞伎というのは、今劇場にかかっている歌舞伎とものね、出来た時と随分変って来てるんだ。例えば忠臣蔵なら忠臣蔵が、竹田出雲という人が、こういう精神で書いたんだけどね、それがだんだん時代の移り代りで、いいにつけ悪いにつけて、こういう風に改作されて来ている。それをもう一度、原作者の精神に返ってやろうということでやったんだからね。だから一応形というものは、今まで伝承された形を学んで、そして精神、性格というものは自分で新しく研究しなおして、創り出そうという、集まりであったわけね。

でも、歌舞伎の新作もの以外はさ、歌舞伎十八番とか、完全に歌舞伎として残っているものは、ある程度物真似ぢゃないのかな。代々来ているけども、形とかセリフの言い方とか、蔭に居る三味線の云い出し方とか、みんなある程度真似ぢゃないのかな。

市川 う−ん。真似というと、どういうのかな。

みんな似てるぢゃないの。勧進帳にしてもさ。弁天小僧にしても、玄冶店にしても、張るところはでははるしさ、まあ張らない人も中にはあるだろうけど。張る場所というのは決まっているわね。それは、誰が作ったか知らないけど。勘三郎さんにしても松緑さんにしても、やっぱり六代目(尾上菊五郎)に似ているでしょう。高麗屋(松本幸四郎)は最近やっぱり、非常に播磨屋(中村吉右衛門)ににてるときもあったものね。

市川 まあ、どういうものかな、真似というと語弊があるけど・・・・。

自然についてきちゃうのかな。

市川 歌舞伎というもののあり方がね、形を伝えるということでしょう。そういうとお能でも真似ということになるわね。歌舞伎の場合は、精神を形で表明しているということでしょう。

雷ちゃんなんか、歌舞伎やっていても昔ある歌舞伎ぢゃなくて、新作ものの「屋上の狂人」なんていうのもよかったわね。小弥次っていった?

市川 うん、芳太郎。

すると、誰にも真似出来ないものが、あるわけだ、古くからいる先輩の芸のうまい人でも、雷ちゃんのやった気狂いみたいな役は出来ない。

市川 それがまた、逆説的にさ、それが何百年か経ったらね、雷蔵なら、雷蔵がやったこういうものは、こういう風にやって大変よかったとそれで残るわけだ。歌舞伎というのは、そういうとこがあるんだよ。映画は残っていかんわね。

そうかな、俺はやっぱり残ると思うね。例えば阪妻さんの『無法松の一生』ってのでも。

市川 それは名作として残るだけで・・・・。

いや、やっぱり、阪妻さんの演技として残っているでしょう。

市川 阪妻さんとして残っているんでね。それを真似するということは物真似になるね。

うん、それは映画の時は物真似になるけど、阪妻さんが、最高に良い芝居をしたと、それは残ると思うな。

柔と剛の典膳と安兵衛

編集部 今度の『薄桜記』で、久し振りに共演なさっるわけですね。

一番始めに共演したのは何だったろう。

編集部 二十九年の『花の白虎隊』で、この映画が、お二人のデビュー作でもあるわけです。そして次が「踊り子行状記」ですね。

市川 うん、『踊り子行状記』は、なんか一番つまらん映画だったような印象が残ってるね。

うん、つまらなかったね。

編集部 それから『怪盗と判官』。

市川 あゝ、あれは面白かった。

これこそ、娯楽作品として、一番二人の性格が、はっきり出たものぢゃなかったかな。次は?

編集部 『秘伝月影抄』。

でも、これは、本当だったら逆ぢゃないかなと思ったな。雷ちゃんの綱四郎の方がよかったような気がする。

市川 綱四郎が君だった?あゝそうか、僕が連也斉だったな。それからは、顔合わせ言っても、オールスター物だったね。それ以来というわけか。今度の『薄桜記』で僕のやる丹下典膳というのは、一応面白い性格になっているね。併し、それをどういう風にやるかというのは、なかなか難しいな。僕はまだ、そう本もよく読んでないしね。具体的には、まだよく考えてないんですがね。まあ、大ざっぱに言えば前半は甘くね。後半はね、本に書いてある通り、秋の大気が草木を枯らすという雰囲気らしいからね。片手をなくしてからの丹下典膳の心境は。

シナリオでは、安兵衛と、典膳の、武士の友情ということもあるけど、やっぱり、典膳と千春の愛情だろうね。

市川 いや、やっぱり、二人の友情を主に書いてありますね。まあ、こじつければ淡い三角関係みたいのもあるけどね。悲恋映画みたいになっているね。

会社としては、陰と陽というのを狙ったんでしょうがね。安兵衛は陽にはなってないね。どうも安兵衛の性格というのはちょっと言えないな。随分たくさん、出場はあるんだけど。

市川 でもね、僕が感じた典膳と安兵衛は明暗ではなくて、柔と剛という感じ方の方が良いと思うね。そして典膳自身から言えば、前半は明にして、後半は暗と、明暗に分けてねわかりやすく分ければ。

典膳は「堀川波の鼓」だね。

市川 う−ん。もうちょっと、あれの近代人だな。

「時代映画」59年10月号より