切られ与三郎

1960年7月10日(日)公開/1時間35分大映京都/カラーシネマスコープ

併映:「三人の顔役」(井上梅次/長谷川一夫・京マチ子)

製作 武田一義
企画 鈴木炤成
監督 伊藤大輔
脚本 伊藤大輔
撮影 宮川一夫
美術 西岡善信
照明 中岡源権
録音 大谷巌
音楽 斎藤一郎
助監督 渡辺実
スチール 西地正満
出演 淡路恵子(お富)、富士真奈美(お金)、中村玉緒(かつら)、浦辺粂子(お源)、藤原礼子(あやめ)、香川良介(伊豆屋与左ヱ門)、潮万太郎(源右ヱ門)、小沢栄太郎(山城屋多左ヱ門)、小堀阿吉雄(市場鶴)、多々良純(蝙蝠ノ安五郎)、村田知栄子(お菅)、山路義人(亥太郎)、寺島貢(佐々良三八)
惹句 『ふるつきたい、この傷千両ためいきつかせる、名タンカしびれさせます二度見ます』『怒涛と迫る御用提灯の炎の中に燃えて消えゆく二つの唇』『旅路の果ての与三郎が、初めて掴んだ真実の恋』『離すまい死ぬまいしびれるような真実の恋が、炎と迫る御用提灯の中に』『「お富、お主アおれを見忘れたか」所も御存知玄冶店ツラもタンカも日本一待っていました雷蔵絶品の切られ与三郎』『追われて逃げて夜霧の浜辺御用提灯の火の海で、恋が生れて命が消える今宵かぎりの切られ与三』『しがねえ恋の情が仇タンカをきって雷蔵が、日本一に斬りまくり、日本一にシビレさす』『会った女がみな惚れる粋な姿に切られ疵流す浮名の与三郎雷蔵ならではのこの魅力

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  (近代映画60年8月号)
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かいせつ

 日本の映画界の王座を目指す大映が、七月お盆映画として、自信満々のうちにおくる、大映スコープ・総天然色「切られ与三郎」は、一昨年秋「弁天小僧」を発表して大ヒットを放った主演市川雷蔵、監督伊藤大輔、撮影宮川一夫の名作トリオが、同じく歌舞伎の当り狂言に再び取組む意欲と風格のあふれた娯楽時代巨篇です。

 これは、向う疵の与三郎が、お富をゆすりに行く、“いやさ、お富、久し振りだな”の名セリフで有名な玄冶店の場面を中心に、伊藤監督が、奔放な創作を加えて、新しいストーリーを展開、お富と与三郎の数奇な愛憎の流転の姿を描くとともに、新しく義理の妹お金がからんで、さらにラストを感動的に結んだ詩叙あふれる最高のドラマです。

 問題のキャストは悲運の主人公与三郎に市川雷蔵、妖艶なお富に淡路恵子、清純お金に大映初出演の富士真奈美、情熱かつらに中村玉緒らの四大スターが出演するほか、藤原礼子、村田知栄子、浦辺粂子、多々良純、小沢栄太郎、香川良介、潮万太郎、小堀阿吉雄、嵐三右衛門、山路義人といった異色多彩な豪華メンバーでがっちり演技陣を固めています。

 この大作をものするスタッフ陣は、製作武田一義、企画鈴木成、監督・脚本伊藤大輔、撮影宮川一夫の名コンビ、さらに録音大谷巌、音楽斉藤一郎、美術西岡善信、照明中岡源権というベテランがずらりと顔をそろえる堂々たる布陣です。(公開当時のプレスシートより)

  

切られ与三郎(大映)   伊藤組

 新内流しの雷蔵が「今度はゆっくりやります。ヌーベル・バーグみたいに早よせなあかん思うて」と、伊藤大輔監督に云って笑わせている。

 うすぎたない安宿。お鹿婆がブツくさいいながら板戸を開ける。雷蔵が入って来る。一言、二言しゃべって、雷蔵、金を渡し、考え込むように土間に座り、寝そべるように身体を横にしながら新内を口ずさむ、・・・チンチンと相の手が入る、そこで今までパンしてたカメラが雷蔵のアップを撮りに行くのだが、きっかけがうまくいかないらしい。宮川一夫カメラマンが声をかける「電車でもチンチン云うてから動くやないか」、伊藤監督の「よし、チンチンから十秒」で決まった。カメラは、下り坂になったレールを十秒滑り下りて雷蔵の正面アップも撮った。一カット一シーンである。

 八畳の間。レールが敷かれ移動車に小型クレーンをつけて置かれる。中村玉緒の歩くコースを残して、部屋一杯である。伊藤監督が、玉緒に演技をつけ始める。セリフを云いながら座る速度を、カメラのダウンする速度に合せるため、玉緒をの肩を手で抑えて落ちるスピードを指定している。本番になる。

 カメラを目の前に、今絞め殺したばかりの男の首の赤いヒモが見えるように立上る。柱に当って止まる玉緒、顔を起して、叫ぶ。ヘナヘナと座り込む。カメラもついてダウンする。玉緒、両手で顔をつかむようにおおってセリフを云う。この時、カメラが前進移動するのだが、前のカットのつなぎ具合で、移動しないことになる。三十一秒である。(時代映画60年7月号より)

 

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ものがたり

 江戸の蝋燭問屋“伊豆与”は、跡目をつぐ子供がいないところから、与三郎を養子に迎えたものの、間もなく与左ヱ門・お菅の夫婦には、思い出しようにお金と与之助の二人が、ばたばたと相次いで生れた。こうなれば、伊豆与にはも早や無用の人となった総領養子の与三郎は、みずから放蕩三昧にふけって家を飛出し、得意の三味線を抱えて、中村座の舞台裏から、手弁当さげての道楽勤めをしていた。が、ある日、大根役者のお相手は出来ないとばかり、さんざん罵倒してこれもとうとう止めてしまった。

 婆やのお源を相手に気ままな一人暮しを続ける与三郎を、時々訪ねてくる義妹のお金は、百八つの毬淡嶋明神にそなえて、与三郎が一日も早く家に帰ってくれることを願かけているのだといじらしくもいうのだった。しかも今日は父の与左ヱ門が病気で、与三郎にきてくれるようにとのことづけである。

 与左ヱ門は、こんどの病気をシオに隠居し家督を与三郎に譲ろうと考えて、彼を呼びよせたのだが、妻のお菅は、秘かに大阪から縁つづきの山城屋多左ヱ門を呼んで、実の子の与之助が跡目をとれるようにと策動した。すべてを知った与三郎は、お金の切ない願いをよそに、仮りの住いも片付けて一人旅に出てしまうのだった。

 そして木更津の浜へ − 与三郎は、ここで新内を流して歩いたが、ふと花街の一角で塀ごしに顔こそ見えないが、熱心に与三郎の三味線に連弾きしようとする音の主に出合った。江戸から流れて、このあたりの網元源左ヱ門の囲い者となっている料亭“きさらぎ”の女将お富だ。翌々日お富は、太夫として与三郎を自分の家に招じ入れ、久し振りに聞いた生粋の江戸の音締めに江戸を懐しむのだった。この運命の夜、行きずりのこの二人はついに燃え、そして結ばれた。翌日もその翌日も、心を残して立去ろうとする与三郎を渡し場に追いかけるお富は、とうとう離れられないものとなってしまった。

 そんな時、網元の源左ヱ門が旅先から帰って二人の様子をすっかりかぎつけてしまった。すべてを覚悟したお富と与三郎は、烈しい最期の抱擁ののち、墓場の井戸へ身を投げて心中をはかったのだが、悲運にも二人は源左ヱ門の子分たちによって発見されるところとなった。引出された与三郎は、苛烈なリンチで全身に三十数カ所の生キズをうけたうえ、簀巻にされてついに海へ投げ込まれてしまった。

 しかし、与三郎は、ほどなく田舎廻りの女歌舞伎“芳村あやめ”一座の女たちに助けられた。座頭のあやめと女役者のかつらたちである。与三郎はここでも三味線をとって囃子をつとめたが、お富との情事に深い影をのこす彼は、あやめとかつらが、さり気ない親切な素振りで、彼に近づこうとするのを放っておくわけにはいかなかった。彼は一夜、意を決してここを出た。

 それから一年 − 与三郎は、はからずも湯の町でかつらに出合った。彼女は一座の借金を肩替りしてやろうという大貸元の佐々良三八に騙され、一座は解散のうえ、三八親分の妾になりはてていた。“ここから自分を連れ出してほしい”という切なるかつらの言葉に、与三郎が約束通り迎えに行くと、彼女はすでに三八をしめ殺していた。それが子分たちに見付かって、自分の命が危くなったとき、彼女は意外にも三八殺しの犯人は与三郎だといい張って難をのがれよとした。またしても女心に裏切られた与三郎は、怒りに燃え逃げ廻るかつらを刺してしまった。与三郎は見廻り隊に取りおさえられたが、その夜牢を破ってあその場を逃れた。

 しかし、与三郎は、牢破りとして関八州のお尋者になるとともに、三八一家の子分たちからも追われる破目になった。お金の安否を気使う与三郎は、人目をさけながら江戸に帰り、お源婆やに会って、伊豆与のその後の様子をすっかりきいた。

 お源の語るところによれば、大旦那は間もなく死に、与之助が跡目を相続したが、大阪の山城屋が後見役として入り込んで、すべてはお菅の思い通りに運んでいた。しかも山城屋は商売上の策略から、十七才になったばかりのお金は、無理やりにお城の御用商人掛りの飯沼左仲のもとへ嫁がされることになっていた。それも表向きは後妻ということだが、内実は妾というのが真相らしいという。なおも山城屋多左ヱ門は、新和泉町の玄冶店に妾を囲い、ここでお役人の接待に余念がないということだった。

 与三郎は、同じ安宿の蝙蝠ノ安五郎にさそいをかけ、この向う疵を売り物に新和泉町界隈をゆすって廻る相談をもちかけた。そしてその初日が、多左ヱ門の別邸である。それは、多左ヱ門に直接会って、非道なお金の縁談をぶちこわそうという与三郎の企みだったかも知れない。しかも与三郎の驚きは一通りではなかった−多左ヱ門の囲い者というのが、実は三年前、木更津での心中未遂の片割れである。お富、その人だったのである。

 「えゝ御新造さんェ。おかみさんェ。お富さんェ。イヤサ、お富、久し振りだなァ」と両膝を突いて腕組む与三郎に、お富は「さういうお前は」与三郎頬冠りをとって「与三郎だ、お主ァ俺を見忘れたか」お富茫然。「しがねえ恋の情が仇、命の綱の切れたのをどう取りとめてか木更津から廻る月日も三年振り・・・おウ、安!これじゃ一分じゃ帰られめェ」−外ですっかりこの様子を聞いていた多左ヱ門が飛び出てきて、小判の包みを差出し、丁寧に二人を帰した。

 分け前を与えて蝙蝠安と別れた与三郎は、多左ヱ門の出て行くのを見届けたうえで、再びお富のところへ引返し、自分に代ってお金を助けてやってくれと頼むのだった。“その代り、お金を救えたら、一目でも半目でも、自分を与三郎の女房にしてほしい”と懇願するお富は、その舌の根もかわかぬうちに多左ヱ門にことの成行きを注進した。お金のもとへはお源婆やの知らせで与三郎の帰ったことが知らされたが、折角の縁談に、邪魔が入ることを恐れた多左ヱ門は、一気にお金の嫁入りを決行しようとはかった。

 お富にそむかれた与三郎は、さらに仲間の蝙蝠安にも裏切られた。与三郎の命を狙って江戸へきた三八親分の子分どもは、蝙蝠安をおどかして、与三郎がお富のうちにいる現場へ踏みこんできた。与三郎はお富を刺し、返す刀で四人組の子分どもと相対した。

 大通りの彼方から迫ってくる御用提灯の群れ。与三郎は屋根を伝って淡嶋明神へ・・・一方、花嫁姿のお金は、出発を間近に思い出の淡嶋さまへと急いだ。二人は祠前でバッタリ会った。お金の目が月下にぬるむー 与三郎は、自分が代官所へ名乗って出れば、兇状持ちの妹ということで、この縁談はぶっ毀れるにちがいない。“俺は名乗って出る”という与三郎に取りすがり、満眼の涙をたたえたお金は“私ーお兄さまが好き”意外なお金の言葉に、ハッとした与三郎は、彼女をひしと抱きしめ、今にも求め合う二つの唇が合わされようとする。真実の恋を知るには、余りにも大きな犠牲を払った与三郎だが、“青い鳥”は案外身近にいたのである。しかし、流転の果てに、生涯で初めての恋を掴んだその時は、怒涛と迫る幾千の御用提灯の炎の中に包まれていたのだった。「誰にもやらぬ、お金、お前は俺ひとりのものだ」お金を抱いて海へ歩み入る与三郎。狂熱の愛撫が続き、恍惚の微笑が浮ぶ。 (大映京都作品案内より)

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切られ与三郎

押川義行

 お富と与三郎の話は玄冶店の場だけが有名だから、こういうてんまつを見せられると戸惑う人があるかもしれない。当然玄冶店がポイントになりそうなところだが、実をいうとこの映画の性格は、そのポイントを軽くつっ放した点に面白さがあるといえる。今となってみれば話自体いい加減馬鹿げているとはいうものの、そこが時代劇ならではの興味にもつながって来るわけだ。

 与三郎は江戸の蝋燭問屋の養子。弟の実子が生まれたからといって家督を譲る気になる気の弱さは、少々既定の事実として簡単に見過している形だが、それが発端で身を持ちくずしたという、そのドラマの方に重点を置いている以上、とやかく論じ立ててもはじまらない。心理的なものには一切目をつぶって、ひたすら与三郎の不幸を語ろうとするからには、やはり語り上手でなければサマにならないわけで、その点、近ごろ肩を怒らせ勝ちだった伊藤監督の、久しぶりにくだけた調子がなかなかさわやかだ。理クツもへちまもないこういうものの方が、“現代的”解釈におもねったものより余程親近感を招くということ。これはただヴェテランの名前だけにこだわる無意味さを改めて認識させるよすがになった筈だ。

 お金という少女が出て来る。養父母の娘、つまり与三郎の義妹だが、彼女だけが与三郎の味方だったというのはいいとして、この二人の間にはじめからただならぬ感情があったという持ち込み方は、原作はいざ知らず、一方にかつらという女役者の惨めな人間性をつっついているからには何かの形でバランスを取らなければ、下駄と足駄を片足ずつはいたような印象になるのも止むを得ない。そんなところに語り口のうまさだけではゴマ化せない穴があるのだが、そういうもののゴマ化し方こそ講談と時代劇との差があらわれるのではないか。問題のお富にしても、幕間のない映画では、やはり性悪女になり下った経緯、あるいはヒントだけでも、どこかに用意すべきだった。与三郎とお富の情痴の果てがあんまりカラリとしすぎたのも、玄冶店をあっさり片づけているだけ却ってシコリを残したようだ。

 カブキ的にでなく、むしろ新派悲劇的に料理したことが、逆に人物の性格を弱めたともいえるだろう。それがひいては雷蔵の演技のメドを失わせたことになりそうだ。お富の淡路、お金の富士、なかんずくかつらの玉緒がそれぞれ軽く、あるいは可憐に、あるいは必死に演じているが、三人を別々にあしらいながら、与三郎の数奇な一生を描いているにしてはどこか線が弱いのが気になる。

興行価値: 今日的意義はともかく、歌舞伎でよく知られた題材を市川雷蔵で豪華に仕上げ、お盆封切は好調だった。(キネマ旬報より)

 

切られ与三郎の墓 -切られ与三郎のモデルになった4代目伊三郎の墓-

 与三郎の墓

 鳥居崎公園にある見染の松(与三郎とお富が出会い、逢瀬を楽しんだところとされています)

 芳村伊三郎の名は、江戸長唄の名家で、現代まで襲名され続けているが、4代目伊三郎は、千葉県東金市東金にある最福寺から南西4キロの清名幸谷の紺屋の中村家の二男として寛政十二(1800)年に生まれた。名を中村大吉といい若い頃から長唄に親しみ、その美声と男ぶりは近隣でも有名だったようだ。
 大吉は長じて木更津で型付職人として腕を磨き、年季が明けた後は、清名幸谷に帰り、兄の紺屋の手伝けをしていたが、根が好きな長唄を唄うために家から1キロほどの東金と大網の中程、新堀の茶屋に足しげく通っていたところ、そこで見そめたのが茂原生まれのきち(お富のモデル)であったのだが、きちには近くの堀畑の親分山本源太左衛門という旦那がいた。美男美女の間柄はすぐに親分に知られてしまい。若い二人は勝手知った木更津に逃げたのだが、結局は、子分達に追われ、大吉は切り刻まれた上に、むしろに巻かれて海に投げ込まれてしまった。しかし、奇跡的に江戸の漁師に助け上げられた。一方、きちは連れもどされた挙句、江戸に売られてしまった。

 後年江戸へ出て唄方となった大吉は、4代目伊三郎を襲名したのだが、若い日の仕打ちで受けた顔から身体中の数十の疵が8代目団十郎の目にとまり、鶴屋南北の門下、三世瀬川如皐に伊三郎、おきちをモデルに人物名、地名などを含め、その筋書きも、おもしろおかしく善玉、悪玉を誇張して書きあげさせたのが、世に「お富・与三郎」で知られる歌舞伎狂言「与話情浮名横櫛(よはなさけうきなのよこぐし)」なのである。

 5代目伊三郎は、東金の岩崎にある秋山嘉吉方で、明治十五年に亡くなり、師の墓の隣りにという遺言により、葬儀も最福寺で営み、過去帳にも残っている。東金の祭りのお囃子は、この5代目の長唄の影響を受けた珍しいリズムとして知られている。墓は当初30メートル先にあったが戦前、秋の豪雨で崩れてしまい、戦後歌舞伎役者、東金市有志の肝煎りで、この地点に新しく建てかえられた。

 選択寺にある蝙蝠安の墓

こうもり安の墓

 

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