殺陣師段平

1962年9月30日公開/1時間26分大映京都/カラーシネマスコープ

併映:「その夜は忘れない」(吉村公三郎/若尾文子・田宮二郎)

企画 税田武生
監督 瑞穂春海
原作 長谷川幸延
脚本 黒澤明
撮影 今井ひろし
美術 加藤茂
照明 古谷賢次
録音 大谷巌
音楽 高橋半
助監督 渡辺実
スチール 松浦康雄
出演 中村雁治郎(市川段平)、高田美和(おきく)、田中絹代(お春)、山茶花九(兵庫市)、須賀不二男(倉橋仙太郎)、上田吉二郎(引抜きの男)、浪花千栄子(婆さん)、深見泰三(医者)、真城千都世(梳髪の女)、毛利郁子(丸髪の女)、西岡慶子(小女)、伊達三郎(大田)、寺島雄作(徳次郎)、近江輝子(お房)、水原浩一(辻)、嵐三右ヱ門(興行師A)
惹句 『わては日本一の役者を使って日本一の立廻りを作ったるんや』『チャンバラならワイにまかしとき胸すくよな日本一の立廻りをあみ出したる』『沢正と段平の師弟愛笑って泣ける感動篇

 黒澤明の脚本、瑞穂春海の監督によって芸術祭に参加する『殺陣師段平』は鴈治郎の段平、雷蔵の沢田正二郎によって撮影を開始しましたが沢田正二郎といえば、大正の初年に演劇活動が芸術に偏して大衆から離反するのを嫌って「時代よりも半歩前進」をモットーに“新国劇”を創立し、一連の剣戟ものを一つの方向として取り上げた日本演劇史上の偉大な人物です。

 現在の新国劇をあずかる、辰巳柳太郎、島田正吾はその門下であり、先般逝去した大河内伝次郎も沢正の門弟、大友柳太朗は辰巳柳太郎の門下ですから、沢正の孫弟子にあたるわけで、時代劇人にとっては忘れることの出来ない偉大な人です。この沢田正二郎に扮する雷蔵は、沢正ゆかりの人々から、ありし日の沢正面影をつたえ聞くなどして眼鏡をかけた扮装も凝りにこっての大熱演を見せています。この雷蔵と共演するのが、『青葉城の鬼』でデヴューした高田浩吉の愛娘高田美和さんで、段平の養女に扮して可憐な姿を見せています。(「映画情報」62年11月号より)

     

 

 いわゆる旧芝居の形式から脱皮、「新国劇」の旗の下に、不世出の名優といわれた沢田正二郎の名を一躍世に出したのは、いまなお同劇団の売りモノの一つである「殺陣」の魅力にあるわけだが、その陰にあって、沢正とともに悩み、ついには彼のいう「リアリズムを体得し、後世に残る剣戟をあみ出した」殺陣師段平の物語は、長谷川幸延の原作によって紹介され、劇に映画に登場して好評を博したが、大映京都では、今年度の芸術祭参加作品としてその映画化を決定、瑞穂春海監督、中村鴈治郎、田中絹代、市川雷蔵、高田美和らでこのほど製作を開始した。

 同作品は、昭和二十四年、東横映画(現在の東映)がマキノ雅弘監督で映画化、段平に月形竜之介、その妻お春に山田五十鈴、その娘おきくに月丘千秋、沢田正二郎を市川右太衛門で映画化。黒沢明の脚本と、マキノ演出、月形、山田のコンビの好演で好評だったが、こんどは鴈治郎の段平、絹代のお春、雷蔵の沢正、美和のおきくのキャストで、脚本は同じ黒沢明、そこで瑞穂監督に意欲のほどをきいてみると━


 ━ あなたが演出担当に選ばれた理由は

 私自身これまで、いわゆるライト・コメディーものを手がけてきましたが、庶民層のハダ合いというか、そんなところを買われたんでしょう。そこで私としては、泣き笑いの人生といった形のものに仕上げたいと思っています。ご承知のごとく、無学な段平がインテリの沢正に“リアリズムを追求せよ”といわれてムキになって、向かってゆく。背伸びしようとすればするほど、彼なりの苦悩となって現われる。そういう無知な哀れさがほかからはこっけいにみえる。そんなところを描き上げればと思っています。

 ━ 異色モノで悩んでいる点は・・・

 なにしろ明治・大正モノってのは初めてでしてね。おまけに原作がどうしても見つからんのです、だから当時のファンや、新国劇にいた人で、コチラにおられる俳優さんにいろいろと聞いて参考にしています。当時の写真も集まりましたが、全く初めての系列ですからね。頭が痛いです。

 ━ 前作と異なる点は・・・

 黒沢さんの脚本のシンが前作どおりですから、そうおっしゃるんでしょうが、実はこんどの本の方が黒沢さんの脚本そのものなんでしてね“自分の書いたままのものでやってほしい”という希望で、忠実にソレを具現します。マキノさんのはラストが大分異なっているんです。私も一昨年から、多摩川の方に本数契約でご厄介になってるんですが、この際、一発この種のモノでガツンと当ててみたいと思っています。(デイリースポーツ・大阪版08/25/62)

★ 作品解説 ★

 この映画、『殺陣師段平』(総天然色)は、長谷川幸延の数々の名作のなかでも、最高の作との世評高い同名戯曲を映画化するもので、大映が自信を持って放つ。昭和三十七年度芸術祭参加作品です。

 内容は、大正の初年、演劇が芸術に片寄り大衆から離れつつあることを嫌った沢田正二郎が、松井須磨子の「芸術座」を脱退、「時代よりも半歩前進」を唱えて「新国劇」を創立、剣劇ものに一つの方向を見出そうとする。立ち廻り芝居というので、喜んだのは殺陣師上りの、一座の頭取、市川段平である。だが、無知文盲な彼には、沢田の言うリアルな立ち廻りというのが全然分らない。一度は落胆するが、虚仮も一心で、段平は、遂に新しい殺陣を編み出し、それを死の床から沢田につける、といったふうのもので、新しい型の殺陣を求めて飽くことなき執念の灯を、死ぬ瞬間まで燃やしつづけた一代の殺陣師、市川段平の生涯を笑いと涙で綴る異色の感動ドラマです。

 シナリオは、日本映画界の至宝黒澤明が実に数年の歳月を費して脚色、ベテラン瑞穂春海が久しぶりの好素材に意欲のメガフォンをとれば、キャストも、沢田正二郎に市川雷蔵、市川段平に中村鴈治郎、その妻お春に田中絹代といった他、山茶花究、上田吉二郎、浪花千栄子といった演技派スターがズラリ勢揃い、それに加えて先月「青葉城の鬼」でデビュー可憐な笑顔をスクリーンいっぱいに振りまいた新星、高田美和が錦上花を添えるといった、まさしく芸術参加作品にふさわしい豪華な顔触れです。

 スタッフは、前述の瑞穂春海監督の他、七十ミリ『釈迦』以来最近とみに名声の高い今井ひろしが撮影を担当、録音に大谷巌、美術は加藤茂、照明古谷賢次といった新鋭、ベテランがガッチリ脇を固めています。(公開当時のプレスシートNo.1107より)

★ 物 語 ★

 大正六年の春、演劇が芸術に偏し、次第に大衆から離れてゆくのを覚った沢田正二郎は、もっと庶民的な分り易い芝居を作ろうと松井須磨子の芸術座を脱退、「時代よりも半歩前進」をモットーに「新国劇」を創立した。ときに、沢田二十六才。ところが、その年の六月、新富座で開いた旗揚げ興行は無残にも失敗、いまは仕方なく、彼は掻き集めた金で新調した緞帳を劇場の損料に、一座十名を率いて東京を後にした。

 それから二年経った或る月明りの夜、街外れにある材木置場の片隅で、アルコールの入った呂律も充分まわらぬ身体で、大勢の人間相手に盛んに渡り合っている一人の男が居た。彼は歌舞伎時代、中村梅次郎を相手に廻したこともあるというのが口癖の、酒と女に全く目がないといった、一座頭取、市川段平であった。だが、今夜の彼は、心中秘かに期するところがあった。というのも、一座が今度の狂言に「国定忠治」を取り上げたのは、剣戟ものに活路を見出そうとしたこともさることながら、一つは沢田が飽くまで殺陣師上がりの自分を念頭においてのことと固く信じて居たからである。

 やがて、立稽古の日が来た。だが、殺陣が定まらぬ以上、練習は無意味と沢田は立たなかった。段平は、倉橋仙太郎や兵庫市の励ましで、「自分にやらせて欲しい」とやっとの思いで沢田に申し出るが、彼の言葉は冷たかった。「お前の考えた殺陣は、歌舞伎のそれだろう!俺は新しい型、というよりいわば型のない、リアルな立廻りが欲しいんだ」

 「先生、リアルって何のことや、写実って・・・。噛んでふくめるように云うとくなはれ!」段平は去ろうとする沢田の袴に必死に縋りつくのだった・・・。

 その日から、段平の不貞寝が始まった。女房のお春や養女のおきくが気を使って話しかけても、「クソ!沢田がなにゃ・・・いくら大学出の先生やしらんが、立廻りにかけたらわいの方が大先生や・・・」と、がなりたてるばかりであった。そんな或る日、沢田から迎えの使者が来た。とるものもとりあえず飛んでいった段平に、沢田の言葉は又しても残酷であった。「お前も知ってだろ、吉兵衛って殺陣師が居たのを招んで来てくれないか・・・」

 その夜、段平は、兵庫市らと久しぶりに泥酔した。

 「お前さんのお酒はどうもからみ酒でいかんわいなァ」

 「かたみ酒?あたり前や、わいは殺陣師やで、殺陣師ののむ酒なら、からみはつきもんじゃ。考えてもみい。吉兵衛というのはなァ、わいがトンボのきり方を教えていた奴や・・・そのドンシロトの前に手をついてなァ・・・その時のわいの気持、分るか」

 気持の昂ぶった段平は、傍らで盛んに彼に同調して沢田の悪口を云っている役者くずれの男たちを見つけるやいきなりつかみかかった。「止めとけ!俺のは、自たらくしよって追い出された貴様らの逆恨みとは違うわい!」だが、多勢に無勢。段平は無茶苦茶に撲られる。そこに、兵庫市から急を聞いて、沢田らが駈けつけてきた。

 「先生、いらん手出ししたらアカンがな。・・・わいはな撲られながら、実は立ち廻りの研究をしてたんや」思わず段平をみつめる沢田。

 「先生が、しまいにポンポンと投げた手、あれはええ。是非、小松原の立ち廻りに使いなはれ」

 段平のヒントをもとにした立ち廻りは、俄然、巷の評判を呼んだ。意を強くした沢田は、これを機会に東京の桧舞台へ上る決心をした。

 「先生、東京の殺陣師はリアリズムを知りよらんさかい、この小松原を見たら、目廻すにきまったる・・・先生は大船に乗った気でデンと構えてたらいいねん・・・日本一の殺陣師市川段平が乗り込んで東京の芝居斬って斬りまくってやるがな」

 大正十年、沢田は一座と共に数年ぶりで東上、先ず明治座で第一回公演を行ったあと、浅草に根を下した。同時に、彼は、いつまでも立ち廻り芝居に溺れてはならぬ、「桃中軒雲右衛門」などの狂言も手がけていったが、立ち廻りだけが恋女房と考えている段平は、それが不満でならなかった。そんなとき、大阪から段平の恋女房お春の危篤を知らせる葉書が舞い込む。それを知った沢田は、段平に帰るようにいい聞かせるのだが、段平は、「先生、立ち廻りはもうやめでっか!先生は、もう用がないさかい、わてを追い出すのんか!」と喰ってかかり、揚句の果ては、立看板に斬りつけ、それを壊してしまった。

 「先生、わいはな、よめはんの病気が心配でドロンするのやおまへんぜ!」

−五年後、漸く磐石の礎を築いた沢田正二郎らの一行が京都を訪れた。段平は、その頃、成人して美容院に住み込むおきくの仕送りを頼りに、ある裏長屋で中気の余生を静かに過していたが、それを兵庫市から聞くや、絶対安静の禁を犯して秘かに会いに行く。彼の失踪に驚いたおきくは、急いで沢田の許へ走った。

 「−命とられるの覚悟来んならんのは沢田先生のところだけだす」という、おきくの言葉に、沢田はやっと南座の三階に倒れている段平を発見した。

 「・・・あかんがな・・・先生、あれはあかんわい・・・忠治も中気で臥せっている、わいもや。そこが写実や・・・こらリアリズムだった。市川段平が一世一代の手をつける。おきく、何ぞ刀の代りになるもの、持って来い」

 衣紋竹を杖に懸命に立とうとする段平。「・・・し、しかしもうこれが最後や・・・捕手の、首にかかった縄がしまる・・・もうあかんもう目が見えん・・・」襲いかかる死の影と文字通り死斗を繰り広げる殺陣に憑かれた男の最期の姿に、座は激しく打たれて声もない。

 まもなく段平に静かな死が訪れた。だが、お春の「なんぼ、立ち廻りに魅入られたこの人でも、死ぬときは恋女房や子供の手を握って死ぬやろ」といった願いとは反対に、段平の手は刀代りの衣紋竹をしっかりと握ったままであった。(公開当時のプレスシートNo.1107より)

 

 村上 忠久 

 新国劇の旗上げ時代、大正初期に、殺陣師として沢田正二郎の出し物に新工夫をこらした市川段平を主人公とした映画。十二年前に東映で映画化された時と同じに、今度も黒澤明のシナリオを使っている。

 沢正の新国劇が人気の的になったのは、確かにその頃の歌舞伎には見られなかった、新しい写実的な殺陣への面白さにあった。長谷川幸延はこの事を取り上げて、段平という殺陣に生命をかけた男の生涯を描き、長谷川好みの面白さをその小説に出していた。段平は殺陣師として以外は取柄があるとも思えぬ人間だが、妙に女に好かれ、その上、男にまで好かれる男。つまり、一つの物に生命を賭けるという魅力が、他の色々の欠点をカバーして、愛すべき存在となるという、いわゆる一種の名人気質を持っている。従って、映画は、この主人公の生き方を、はっきりと画面に浮かび上らせねば、その存在理由が弱くなる。その点、シナリオは中々に良く原作をこなして、一つの人間像を描き上げている。

 殊に、中村鴈治郎を段平に持って来た事は、成功であった。時として演技過剰の所も見られるが、鴈治郎はとにかく段平として要求される演技を、彼らしくこなしている。それにもかかわらず、映画が今一つ見る人に迫って来ないのは、段平が苦心して案出したリアリスティックな殺陣が、どのようにして作られ、舞台で沢正によって、どのように生かされたかという描写が、まだ足らないからだと思われる。こうした主人公を扱う映画では、その成しとげたものを視覚化して、感動を呼ぶという事は難しいのは、良くわかる。だから、どうしても、主人公の生活面から描いて行く事になるが、その点、瑞穂春海の演出は、悪い点も特に無いが、爆発するものも示していない。鴈治郎の適演にもたれかかった、とはいわないが、もっと表現にきびしさが欲しかった。大正七、八年代の時代考証は割合に正確でもあり、効果も出ていた。市川雷蔵の沢正は、先ず故人を思わせるものもあって、悪くなかった。田中絹代、山茶花九などが好演であり、高田美和も無難な出来。作り易そうで、実は一定の面白さ以上の出にくい題材、そうしたものを映画は今一歩、乗りこえる所までは行かなかった興行価値:確りした黒澤明シナリオの構成にのって出来た楽しめる芸道もの。二本立てテコ入れ用に絶好の作品だ。(キネマ旬報より)

 

澤田正二郎 1892(明治25)年5月27日 - 1929(昭和4)年3月4日は、大正から昭和初期に活躍した大衆演劇の人気俳優。劇団新国劇を創設し、座長を続けた。《沢正》と呼ばれた。葬儀には、時の首相田中義一が弔辞を贈った。

 澤田正弘・寿々子の第3子として、大津市の三井寺の近くに生まれた。収税吏の父が2歳のときに没して一家は上京し、1898年、車坂(現、東京都台東区上野七丁目)にあった下谷小学校(1990年、台東区立上野小学校へ統合)へ入学した。1903年、開成中学へ進み、翌年の陸軍中央幼年学校の受験は、近視のゆえに失敗した。

 1908年(明治41年)(16歳)、一高を受けて落ちた。自由劇場の「ジョン・ガブリエル・ボルクマン」を見て新劇俳優を目指し、翌年早稲田大学文科予科へ入り、1911年、坪内逍遥の文芸協会附属演劇研究所の2期生となって、年末、端役で帝国劇場の舞台を踏んだ。

 1913(大正2)年(21歳)、同研究所を了え、島村抱月・松井須磨子らの芸術座に参加したが、1914年、脱退し、脱退仲間の秋田雨雀らと新時代劇協会(第二次)を作った。1915年、早稲田大学を卒業し、上山草人・伊庭孝らの近代劇協会に加わった。同年、女優渡瀬淳子と結婚し、1924年に離婚するまでに、桃代と正太郎を得た。

 芸術座に復帰してまた脱け、1917年、倉橋仙太郎・田中介二・金井謹之助・渡P淳子らと、11人の劇団「新国劇」を結成した。座名は坪内逍遙の選によった。歌舞伎・新派と新劇との間の、大衆演劇を目指し、座長を勤め、演出を受け持った。しかし、4月の新富座での旗揚げ公演も、6月の京都南座の興行も不入りで、漸く7月の大阪角座で機敏な運びが注目され、松竹社長白井松次郎の提案により、弁天座を本拠に松竹の給料を貰うようになった。そして8月の「深川音頭」で当てた。

 1918年、白井が座付作者に起用した行友李風の、「金山颪」 「月形半平太」 「国定忠治」などの剣戟ものが熱狂的に受けた。乱闘劇は創団の本旨でなかったが、120人に膨れた座員を養う都合もあった。1920年の「伊井大老の死」の成功は、客に喜ばれながら芸術的に向上して行くという「演劇半歩主義」の、半歩だった。そして大阪での人気を背に上京し、「大菩薩峠」で東京の劇壇を席捲した。

 1922(大正11)年(30歳)、松竹から常盤興行へ移り、浅草の公園劇場を本拠とした。また、翌年の関東大震災まで、「新国劇附属演劇研究所」を開いて俳優を育てた。また、「勧進帖」を演じた際に、勧進の3字目を変えたのは、市川團十郎家への遠慮である。

 翌1923年も、「大菩薩峠」全三篇の連続上演などで盛況を続けたが、8月興行中に、澤田以下の男優多数が賭博の容疑で検挙された。自伝「苦闘の跡」には冤罪と書いている。そして拘留中に大震災が来た。

 劇場はほとんど倒壊・焼失した。半月余り後の9月17 - 19日、澤田の企画に文芸協会が主催を引き受け新聞各社が後援し、日比谷公園野外音楽堂で、「勧進帳」などを無料で上演した。廃墟から数万人が集まった。そして地方巡業へ出て戻って、公園劇場の焼跡に張った「天幕劇場」で公演するなど、機敏に動いた。1924年、出演中の演技座が燃えた時は、直ちに両国国技館に、同じ外題を並べた。この年、「苦闘の跡」を出版した。

 1925年には、邦楽座、帝国劇場、新橋演舞場に進出して、大入り満員を続け、1926年の「白野弁十郎」では新機軸を見せた。同年のシェイクスピアの「コリオレイナス」は炎上したシェイクスピア記念劇場への義捐金集めの興行だった。1927年には、《新国劇十周年記念》の公演を続けた。1928年の「坂本竜馬」は名演といわれた。

 1929年1月、新橋演舞場に出演中に急性中耳炎を病んで手術し、座長なしの公演を病院から励ました。症状の悪化を新聞が報じた。座員、六代目尾上菊五郎、初代中村吉右衛門、大谷竹二郎、菊池寛らが病床に駆けつけた。大勢のファンが病院を囲んだ。3月4日に没した。死因は急性化膿性脳膜炎だった。

 谷中斎場で葬儀を営み、日比谷公園新音楽堂で告別追悼会を催した。菊池寛が司会し、山田耕筰が追悼の曲を指揮し、田中義一首相、坪内逍遙、頭山満、高田早苗早稲田大学総長らが弔辞を寄せた。谷中霊園の甲3号1側に眠る。(Wikipediaより)

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