『ある殺し屋』断想
1967年、日本とフランスで期せずして、「フィルム・ノワール」の傑作が公開された。『ある殺し屋』と『サムライ』。両国を代表する大スター市川雷蔵と、アラン・ドロンが主演。アラン・ドロンはパリの下町の小汚いアパートに住み、小鳥を飼っている<サムライほど孤独で、きびしいものはない。密林の中の虎のよりも・・・>というタイトルが泣かせる。一方、雷蔵は通いの小女が手伝っている小料理屋の板前兼経営者。両者ともに美貌で寡黙。だが一発で敵を倒す凄腕の殺し屋である。
全く偶然の競作だが、ムードが同じなのに驚いた。アラン・ドロンは、それ迄にも犯罪映画に数多く出演しているが、雷蔵には未開拓のドラマである。
『ある殺し屋』は、藤原審爾原作の映画化である。月刊誌で読んだ増村保造監督が私に映画化を持ちかけて来た。増村監督は秀れた企画力の持主で、有吉佐和子の「華岡青洲の妻」や、野坂昭如の短編「心中弁天島(映画題名『遊び』)」等、ユニークな原作を見つけて、ねばり強く私と映画化を進めて来た。
藤原審爾さんと私は岡山の出身である。終戦直後の岡山で同人雑誌を始めた藤原さんは、瞬く間に中央文壇に迎えられ、次々と新鮮な小説を発表した。名作「秋津温泉」はその頃の代表作である。
以後、藤原さんは戦争中の抑圧を突き破るように才筆を振い、若くして人気作家となった。私が藤原さんの知遇を得たのは、大映に入社してからだが、特に親しくして頂いたのは『ある殺し屋』の成功がきっかけである。
その頃、映画化される小説が多かった藤原さんの周りには、山田洋次監督や高橋治監督をはじめ、若い人たちの親睦グループがあった。私はその会とは関係なかったが、ボクシングの世界選手権の朝になると、必ず藤原審爾さんから撮影所に電話がかかり、有無を云わさずリング・サイドに連れてゆかれ、帰りは藤原邸で徹夜マージャンがコースとなっていた。
『ある殺し屋』の大成功を藤原さんはとても喜んで、同郷の後輩のために「殺し屋」シリーズを書いて下さった。永田大映が倒産した時、いつもの温顔で激励して下さったのも藤原さんだった。増村監督の『動脈列島』(東宝)で映画化権の争奪戦が起こった時も、藤原さんは原作者の清水一行氏に、私たちが映画化できるように頼んで下さった。 |