京都市

 東山七条から、東へ約300mの所に豊国廟がある。その途中に京都女子学園(いわゆる京女)のキャンパスがあり、ここで大学四年間の春秋を過したわけだが・・・・。残念ながらあの三隅・内藤コンビの傑作の一つ『眠狂四郎勝負』のトップシーンが豊国廟で撮影されたことを最近まで知らなかった・・・。

 また、廟までの坂道を、地元では【女坂】と呼んでいる。要するに、通学時間帯ともなれば京阪七条から蜿蜒と若い(幼稚園児から女子大生まで)女の列が続くわけ。

 豊国廟の歴史はそのまま勝者と敗者の歴史と言える。勝者は好かれず、敗者に人々は同情を寄せ、暖かい眼差しを向ける、世の常の習いである。

●慶長3年(1598)8月18日、秀吉は伏見桃山城で63才の生涯を閉じた。
遺体は遺言によって、ここ阿弥陀ケ峰の中腹に葬られ、廟と社殿が建立され
た。しかし、元和元年(1615)豊臣氏の滅亡と共に、廟は破壊され、墳墓にお参りする人もなく、 むなしく風雨にさらされていたが、明治30年(1897)秀吉の300年忌に際し豊国会の手で、廟宇が再建され、墳上には巨大な五輪石塔が建てられた。なお社殿は、明治13年(1880)旧方広寺大仏殿の地に、豊国神社として再建された。 

 明治維新で徳川幕府が崩壊すると、誰憚るところの無くなった京阪神の庶民は“われらが太閤さん”の墓を旧に復し、お参りするようになったわけだ。

NHK大河ドラマ『秀吉』のトップシーン、幼い日吉丸が力一杯かけのぼっていった階段が秀吉の墓・五輪の石塔へ向かう階段である。

 下から写した写真↓だが・・・・一気に駆け上がる自信はなく(うっそうと繁った木々に覆われた階段の彼方に見える空のはかなげなこと)、日頃の運動不足を嘆きつつ(マラソンをやめてから何年だっけ?)、東山三十六峰の一つ阿弥陀ケ峰(196m)の豊国廟・五輪の石塔をめざした。

 565段の階段を上がりきるまでどのくらいの時間を要したのか?早朝のせいか誰一人すれ違う人もなく、それでもなんとか登りきった。

 高さ約10メートルもの巨大な五輪塔が立っていた。「ここに太閤さんが眠っているのね」。おおらかだったという秀吉の性格にふさわしい明るい墓所だった。
 

太閤さんのお墓にご挨拶した後は、一番の目的を果さねば・・・

 『眠狂四郎勝負』のトップシーン・江戸愛宕社は、女坂の突き当たりにある34段の石段を上った広々とした太閤坦(だいら)で撮影された。死後、朝廷から「正一位豊国大明神」の神階、神号を贈られた秀吉をまつる豊国社が江戸時代の初めまであった場所だ。 

 しかし、身近なところ(毎日上り下りした女坂のすぐ上に)に雷蔵映画ロケ地があるなんて・・・やっぱり京都は奥が深い、これからもロケ地探求に励まねば。


 

 口の中で「尻押しつかまつろぅ〜」と呟いてみたが、早朝にもかかわらず565段の上り下りを経た身体からは汗が流れるのみ。尻押し565段はたいへんだろう、でも押してもらいたかった・・・。

 帰り道、女坂の南にある新日吉(いまひえ)神宮の鳥居をくぐった。御幣や鈴を持った珍しいサルの阿吽(あうん)像が目を引く。学生時代に何度も訪れたところだが、今日の今日まで太閤さんと関係がある神社だと思っていたのだが、実は後白河天皇(1127年-92年)の創建。勘違いしていたようだ。ただ、境内の樹下社(このもとのやしろ)は、豊国社が徳川家に破壊された後、ひそかに秀吉をまつっていたのだという。この近くには、再建された豊国神社や方広寺もある。ロケ地探訪に太閤ゆかりの地を加えて訪ねてみてはいかがだろうか。

          

 廟の登り口、太閤坦へは京阪電鉄七条駅から七条通を東へ徒歩約20分。JR京都駅からは市バス206、208号系統で約10分、東山七条で下車(220円)し、徒歩約10分。登拝料は50円。

 新日吉神宮は参拝自由。サルの阿吽像は本殿前にある。毎年3月13日に後白河天皇祭、5月の第2日曜日に神幸祭、11月14日には御火焚(おひたき)祭が営まれる。