水口町 |
水口城(碧水城)
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近江鉄道水口城南駅の北約150mのところにある城跡。3代将軍徳川家光が上洛の際の宿館と して築城された後(なんとなく、二条城に似ているように見えるが・・・みわ談)、水口藩2万5千石の居城となり、 湧水を利用した薬研堀に水をたたえていたことから「碧水城」の別名があった。 明治維新後、水口城は廃城となり公売に付され、角櫓が付近の商家に売却されたり、石垣の一部が近江鉄道の敷石になるなど建物や石垣の大半が処分された。 旧本丸は学校敷地となり、運動場として利用されてきたが、昭和47年将軍家宿館遣跡としての価値が評価さ れ、滋賀県の史跡に指定されたのを機会に、郷土のシ ンボルとしての保存整備への関心が高まった。 また、平成3年11月に水口城資料を展観する施設と して、往時の矢倉の姿を模した水口城資料館が開館した。 (資料館パンフレットより) この碧水城で「続・忍びの者」が撮影された!! 2000年10月29日水口の碧水ホールで「雷蔵 in 水口」が催された。『忍びの者』『続・忍びの者』の上映に加え、二作品で美術監督をつとめた内藤昭さんの公開インタビュー、ホールでのロケハン写真の展示等々、盛りだくさんの一日だった。 市川雷蔵は、1969年(昭和44年)に37歳という若さで亡くなるまでの15年間に158本(うちゲスト出演作5本)の映画に出演。死後もその人気は衰えず、今なお新しいファンを獲得し続けている戦後最大の映画スターです。雷蔵が亡くなってから30年目であった昨年には大規模な雷蔵映画祭が開催され、その人気ぶりを証明しました。 膨大な雷蔵出演作の中に、水口町で撮影された映画があります。忍者モノ映画のはしりであった雷蔵主演の「忍びの者シリーズ」第二作目の『続 忍びの者』(1963年)がそれです。最初はシリーズ化は予定されていなかったようですが、期待以上の大当りとなり第八作まで製作されました。(RAIZO in Minakuchi フライヤーより)
-信長によって伊賀の忍者仲間を皆殺しにされた忍者石川五右衛門が、雑賀党の一員となり、本能寺で信長を殺して恨みを晴らす。しかし雑賀党は秀吉に攻められ全滅、五右衛門もかまゆでになるというお話。- 内藤さんの話。「水口城は平城で山がなかったから、これはイケルと思いました。周囲の林で合戦シーンも撮れましたからね」 撮影当時の水口城の写真が展示されていたが、かろうじて石垣が残る荒城である。堀は乾いて草だらけ。お役人に草を抜いてもらい、堀に水を張り、石垣の上にとりでを加工して、雑賀党の本拠地である強固なとりでを作り上げた。 現在の水口城は木を1本切る時にでも県の許可がいるが、「撮影当時は全く自由で、とりでの崩壊でも何でも、やりたい放題にやりました。おかげで迫力ある合戦場面が撮れた。あんな大爆破や大火災は、今ではとてもできない」と内藤さん。 忍者映画だから仕掛けもふんだんで「忍者の雷蔵さんが水の上を走る場面がありますが、あれも水口城の堀です。水面下3センチぐらいの所に台を作って、その上を走ってる。水中に台を隅々まで敷くのが大変でした」。一向一揆で僧侶が焼け死ぬ寺は三井寺だが、三井寺の門だけ撮ってきて、そこへ焼き討ちの炎を合成したトリック撮影である。雷蔵がかまゆでにされる河原は能登川町だ。(吉田馨、毎日新聞より) 『続・忍びの者』ロケハン写真 内藤美術監督の先導で、水口城の本丸跡へ向った。中学校のグランドには雑賀砦の面影など微塵もなく、ただ水口城跡の説明文だけが立っている。月曜日ということも手伝ってか、われわれ以外人影もなく、お天気ももう一つ。城跡なんてこんなもんだと思った次第。 さて、肝心の映画の場面は
水面下の台の上を走る五右衛門
ほんと、派手な大爆破!!
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