京都市

 

 

 

島原大門

嶋原

 

 京都市下京区に位置する花街の名称。「島原」とも書く。正式名は西新屋敷といい、6つの町(上之町、中之町、中堂寺町、太夫町、下之町、揚屋町)で構成されている。嶋原は1976年に京都花街組合連合会を脱会し、現在は輪違屋のみが茶屋営業を行っている。(Wikipediaより)

角屋 輪違屋

 

 

 江戸時代以来の公許の花街で江戸中期には和歌俳諧等の文芸も盛んなところでした。一時期は島原俳壇が形成され 与謝野蕪村等によって文化サロンの場となり 賑わいました。
 吉野太夫はあまりにも有名で、幕末には
新選組等がよく利用し維新胎動の地の一つとなりました。揚屋建築の「角屋」や置屋建築の「輪違屋」が現存し高麗門の島原大門等が 昔の名残りをとどめています。

 

角屋

 江戸時代に栄えた京都の花街・島原。その島原の地に揚屋(あげや)の遺構として唯一残存し、国の重要文化財に指定されている建物が「角屋(すみや)である。
 揚屋とは、太夫や芸妓を招いて宴を開く場であり、言わば高級料亭のような場所。この角屋では、新選組や坂本龍馬など幕末の志士たちの酒宴もたびたび開かれ、新選組初代局長・芹沢鴨も、土方歳三らに暗殺される直前、この角屋で計略的な酒宴に興じていたという。

 
 
 幕末が舞台の映画に、島原「角屋」は祇園と並んで必ず登場する定番の場所。雷蔵主演映画では『大菩薩峠』『新選組始末記』『鞍馬天狗』等に登場し、ビデオで見比べる楽しみもある。私見としては、内藤昭美術監督の映画人としての技の光る『大菩薩峠』がピカ一!のように思うのだが・・・。(ちなみに、すべてセット撮影。本物の「角屋」でロケはしていない) 

 台所へ入る内用の玄関で話すお松と兵馬。現在の玄関先角屋の家紋(蔓三の蔦)を染めた暖簾

 
 
 角屋二階「扇の間」の様子を映画で見ると、襖に扇面がちらしてあるのが分る。だが、天井に五十八枚の扇面を貼り交ぜているところから「扇の間」と称したのが本当。その上、「御簾の間」に至っては・・・・映画では竜之介の後ろに御簾が見えて、錯乱した彼がこの御簾をばっさばっさと切り裂き、その姿にお松が怯えるとなるのだが・・・

角屋2階は一切の写真撮影不可(パンフレットより)

大宴会真っ最中の角屋「扇の間」

 
 実物は襖が山田峨山筆になる極彩色の「総翠簾の絵」(随分退色していて、さっぱり翠色には見えない)であることからこう名付けられたそうだ。申し訳程度に御簾があるにはあるのだが・・・・ばっさばっさと斬るのは到底不可能!

 
 映画『大菩薩峠』では、錯乱した竜之助は霧立ち込める中に白刃をひっさげ殺気みなぎる・・・そこに、壬生寺の鐘が陰にこもって鳴り響く・・・エンドマークとなるのだが、角屋のうらに小川も流れず、従って妖しい霧やら靄のかかるはずもなく・・・映画の作った虚構の世界を私たちは虚構と知りつつ愛し、その上こうして舞台となった場所までやって来る。
 
 角屋の二階を実際に見学して、それぞれ趣のある座敷が当時の照明の関係で(蝋燭)煤けているのは仕方がないが、「青貝の間」は壁、建具等いたるところに青貝をちりばめた豪奢な座敷。タイムスリップを敢行して建築当時に行くことができたらと切に思った。

 百数十年前の新選組や勤王の志士たちは、もっときれいな座敷で密議を凝らしていたのだろう。それにしても、廊下があるとはいえ、襖一枚を隔てて敵同士が密議を凝らしていても不思議ではないというのは、花街の特性なのだろうか?それとも幕末という時代が特別だったのだろうか?

 
 左の説明看板によると、「角屋」は久坂玄瑞が密議をこらした場所とある。新選組だってここで密議を凝らし、深雪太夫と近藤さんも愛を育てたのだ。

  

密議の凝らしようがないので、記念撮影後角屋を後にした