■ 吉原遊郭
江戸時代以降、政府公認の遊女屋の集まる遊郭(いわゆる赤線)として栄華を極めていた吉原。
江戸に初めて遊郭が設置されたのは慶長17(1612)年のこと。日本橋人形町付近の遊郭を吉原遊廓と呼んでいました。その吉原遊廓が明暦3(1657)年の大火で消失してしまい、その後この地に移転してきた遊郭を正確には新吉原とい言います。
徳川家康によって形成された江戸の街の最大の特徴は、水路の整備。街中には水源から引き込んだ運河が張り巡らされ、主要な交通路として機能していました。その光景は「東洋のベニス」とも称されるほど。(週刊江戸3巻情報)
■ 見返り柳
見返り柳は、土手通り吉原大門交差点にある柳の木です。土手通りは、浅草寺の北側にある待乳山聖天から浄閑寺などのある三ノ輪へ向かう通りで、かつて遊客が浅草から吉原へ向かう道に当たります。
吉原遊郭で遊んだ客が吉原大門を出て、後ろ髪を引かれる思いを抱きつつ、この柳のあたりで遊郭を振り返ったということから「見返り柳」と呼ばれていたといいます。かつては山谷掘脇の土手にあったものの、道路や区画の整理により当地に移され、また、震災・戦災による焼失などによって、数代にわたり植え替えられているといいます。
きぬぎぬの
うしろ髪ひく 柳かな
見返れば 意見か柳 顔をうち
アクセス:東京メトロ銀座線、都営浅草線、東武伊勢崎線「浅草」駅 徒歩23分,東京メトロ日比谷線「三ノ輪」駅 徒歩10分
■ 浄閑寺
浄土宗の浄閑寺は栄法山清光院と号します。晴誉(寛文元年1662年寂)が開山となり、明暦元(1655)年に創建したといいます。吉原の遊女はここで埋葬されたことから、投込寺と呼ばれていました。
-新吉原塔、花又花酔句壁と文豪永井荷風文学碑-
江戸時代、吉原で死んだ遊女たちは、この寺に送られて埋葬されたので、投込寺とよばれていた。この寺に埋葬された遊女は2万人を超え、過去帳によると遊女の死亡平均年齢は21.7歳である。死んだ遊女たちを供養するため、寛政5(1793)年新吉原供養塔が建立された。塔の基部には花又花酔の句「生まれては苦界、死しては浄閑寺」が刻まれている。文豪永井荷風は、しばしばこの寺に訪れ、その死を悼んでいたことから、永井荷風文学碑が建立された。
浄閑寺本堂、新吉原供養塔、川柳作家・花又花酔作句碑
アクセス:東京メトロ日比谷線三ノ輪駅北口(徒歩1分)、都電三ノ輪駅(徒歩5分)、都バス大関横丁または三ノ輪(徒歩5分)、
猫の足あと(台東区の寺院、神社など台東区の寺社案内)より
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