大映の誇り守る街
キネマストリートの愛称がある大映通り商店街。帷子ノ辻駅に近い飲食店「つたや」に、秘密の奥座敷があると聞いた。松竹の撮影所に面した裏口から入った店主宅の居間。堀ごたつの六畳間を、監督や俳優が落ち着けるようにと提供した。
店主の母、山本和子さんが「伴淳三郎さんも草笛光子さんもみーんな、うちのお客さん。山崎努さんや田中邦衛さんは、奥でごろーんと昼寝して行かはる」と教えてくれた。
勝新太郎さんの好物はオムライスで、名取裕子さんのお薦めは。あんかけうどんらしい。
商店街振興組合の理事長で漬物店を営む森春生さんを訪ねると、「この街は、ちょっと変わってるかもしれませんなあ」と笑顔で言った。
今も年に数回、エキストラの声がかかり、商店街の人たちが集まる。「幼いころから映画に出るのが普通のことやった」
71年に大映が倒産したとき、商店街の名前を変えようか、という案もあった。だが、太秦の事務所に通う勝さんが通りを毎日歩いていたから、「変えます」と言い出せなかった。
今月一日、「角川大映映画」が「角川映画」に社名を変え、「大映」の名が残るのはこの商店街だけになった。いまは、「大映」の名を守ることを意気に感じている。
太秦は六世紀、渡来人・秦氏が開拓した。
主な産業は養蚕。絹をうずたかく積んで朝廷に献上して賜った「兎豆麻佐(うずまさ)」の名に、「太秦」の字を当てたと伝わる。 1897年、京都の実業家稲畑勝太郎が、留学先のフランスから「シネマトグラフ」を持ち帰り、四条河原町で露天上映をした。スクリーンに映した「初」の映画上映といえる。 まもなく、西陣で芝居小屋の千本座を開いていた牧野省三が「本能寺合戦」を撮る。大衆歌舞伎を劇映画に発展させ、後に日本映画の父と呼ばれる牧野は、撮影所を二条城、等持院、御室と北西に広げた。 1926年、竹やぶが広がる広隆寺の北側に、俳優阪東妻三郎が撮影所を開く。洋風建築のスタジオは五千坪。前年、代表作「雄呂血」をヒットさせた阪妻の意気込みが伺える。 京福沿線に次々にできた撮影所は統廃合を繰り返し、大映、東映、松竹の撮影所がそろって太秦は最盛期を迎える。 中でも、市川雷蔵や山本富士子らを抱え、勝新太郎の座頭市シリーズなどで「これぞ京都映画」と評されたのが大映だ。 「勧善懲悪」と「ハッピーエンド」を柱に、「ラッパ」の異名をもつ永田雅一社長が太秦に乗り込んだのは阪妻に遅れること二年。51年には黒澤明監督の「羅生門」でベネチア国際映画祭のグランプリを受賞し、世界にその名を知らしめた。 |
未来のキネマ人待ってる
大映京都撮影所は倒産で一時規模を縮小し、別会社の運営になった。そのころ、敷地内に隣接して太秦中学が建つ。
三月まで校長をつとめた青木克之さんは、撮影所横の同行で教壇に立った。
「授業中に銃声が響いても堪忍して」と言われて驚いたり、俳優の親善野球に校庭を貸したり・・・と思いでは尽きない。「当時のスタッフの孫が中学を卒業する時代。また新しい才能がここから出るかもしれん」
撮影所には「羅生門」の受賞記念で、金獅子像とオスカー像のレプリカを飾るグランプリ広場があった。その広場が一昨年、地元や映画関係者の手で中学の正門横に再建された。
商店街のスタジオ「サウンドステーションいのべ」には撮影所のOBが姿を見せ、学生らに映画づくりのコツを伝える。
太秦の魅力を山田洋次監督にあらためて尋ねてみた。
「柴又のようにあつい人情があり、なおかつ人との距離感が適切で、あか抜けている」そして、西洋の格言になぞらえて歌うように言った。
「京の酒屋は健康を気遣い、菓子屋は虫歯を心配し、墓堀人は墓を掘るたびに涙を流す」
ならって言うなら「京の映画人は客の懐を心配しながら面白い映画をつくり、キネマストリートの住人は天気の話でさりげなく監督を励ます」というところだろうか。
そうあり続けてほしい。(朝日新聞 04/10/2004より)
■アクセス
阪急大宮駅で京福嵐山線に乗り換えて12分で太秦。駅前の交差点から商店街。東映京都撮影所までは徒歩5分。次の帷子ノ辻から松竹撮影所まで徒歩2分。JR嵯峨線太秦駅から東映撮影所までは16分ほど。
■探索コース
撮影所は原則非公開。東映太秦映画村(075-864-7716)では、セットを見学したり、時代劇の衣装を着たりできる。大人2200円。村内に映画文化館がある。
大映通り商店街の中ほどを南に折れると太秦中学。校門に「大映京都撮影所」の看板がかかり、「グランプリ広場」がある。牧野省三顕彰碑は三吉稲荷に建つ。
太秦交差点前に広隆寺。国宝第一号の弥勒菩薩半跏思惟像(飛鳥時代)などが安置されている。京都で製作された映画の資料を集めた京都文化博物館(075-222-0888)が市中心部の中京区三条高倉にある。