湊屋から見えた景色には今、河口堰がある。落日の中、雨雲が茜色に染まった。

 
 
そのな、焼蛤は、
今も町はずれの葦簀張り
なんぞいたします。

 雨にけぶる路地をふらふら歩いて、焼き蛤を食った。食わずに帰れぬ、と思ったから。中原中也の詩が浮かんだ。

 「桑名の夜は暗かった/蛙がコロコロ泣いてゐた/焼蛤の桑名とは/此処のことかと思ったから/駅長さんに訊ねたら/さうだと云って笑ってた」(「桑名の駅」)

 小父者と呼ばれる小説の主人公も夜の桑名で、いの一番に焼き蛤を思っている。「東海道中膝栗毛」にならって「名物の焼蛤に酒汲みかわして」参ろう、と弥次郎兵衛気どり。遠ざかる汽車がこう見えた。

 「名物焼蛤の白い煙を、夢のように月下に吐いて、真蒼な野路を光って通る」

 鉄道ができる前、東海道宿場だった桑名へは舟で渡った。「七里の渡し」と呼ばれた船着き場の先が町だった。伊勢参りの入り口にして、揖斐川と長良川が合流する河口に近く、治水の進む今も水の気配はすぐそこにある。

 駅におりた小父者は宿場の湊屋へ人力車で乗りつける。暗い軒に掛け行燈がまばらに白く、枯れ柳に星が乱れる「寂しい新地」だったと鏡花は記す。弥次喜多道中の気分で始まる小説は、夜陰のごとき人生の闇に触れていく。

 こちらも夜の駅からタクシーを飛ばす。雨中の旧宿場町で降りると、舞台となったうどん屋ゆかりの店があり、作中湊屋と書かれた船津屋があった。ある店で蛤にありついて、故地の消息を聞く。「船津屋さんは店を閉めました」

 翌日訪ねたら。結婚式場に改装中だった。蛤料理で知られた名亭を残すための商売替えとか。揖斐川をのぞむ座敷は、新郎新婦の打ち合わせサロンになっていた。

 さて、桑名の蛤である。

 「強い浜ですね、ここは。奇跡の漁場だと思います」

 16世紀から漁業が栄えた桑名の赤須賀、漁協の諸戸敦さんによれば蛤は15年前、絶滅寸前だった。干拓や干潟の消滅が原因。ところが漁協が稚貝生産に取り組んだ結果、年0.8トンまで落ち込んだ漁獲量は150トンほどまでに回復した(量産時は3千トン以上)。

 「桑名は殻が薄いが身はパンパン。将来有望で若い後継者が多い」と聞き、ブランドにしたら、と余計な質問を。諸戸さん、その手は桑名の焼き蛤(その手はくわない)の顔になった。守るべきは弥次さん、喜多さんが有名にした名産。「気軽に食べておいしい。それが桑名の蛤です」(編集委員 内田洋一)

いずみ きょうか(1873-1939) 

 金沢市生まれ。父は彫金師、母は鼓の家の出身。幼少時に母と死別した経験が作風に影響を及ぼす。北陸英和学校中退後に上京。辛苦の生活で下層社会の実情を知る。尾崎紅葉に師事、文壇主流の自然主義と対照的な浪漫的作風を築き、異彩を放った。

 「歌行燈」は「高野聖」と並ぶ代表作。友人の笹川臨風らと伊勢旅行をし、桑名の船津屋に遊んだ経験を反映する。鏡花は十返舎一九の「東海道中膝栗毛」を携帯し、読み上げていたという。能に親しんだ鏡花らしく、徐々に雰囲気を出し、謡や舞の芸の神髄に触れる劇的な構成をとる。桑名の夜景を神秘的な情趣で描き出している。(作品の引用は新潮文庫)

07/03/10 日本経済新聞