五条疎開跡で

・・・雷蔵や灰田勝彦らと草野球・・・

 灰田さんは、ずいぶん野球映画の出演が多い。少年の頃に観た『ノンキな父さん』(1946年)では、プロ現役の名投手若林忠志がピッチャーで、灰田さんがバッターの場面があった。若林はプロの中でも、特にコントロールが良かった。四球はほとんど出さない定評の人だった。野球は進行し、五対五で九回の裏を迎えた。あれよあれよの間に満塁となる。

 そこへ人気のバッター灰田の登場となった。お膳立ては整った。ツーアウト・スリーボールとなる。割れんばかりの声援が飛びかう。そこへ、あのコントロールの良さが定評の、名ピッチャー若林は、速球を投げ込んだ。それがなんと、こともあろうに灰田さんのお尻に命中した。もちろんデッドボール。灰田さん側チームは爆笑のうちに勝利となった。

 小学生の私は、あまりの痛快さに興奮して、友にも担任にも、とても仲がよいが、野球に関心のない姉のシズにも「聞いて」と、熱中してストーリーを語った。すこし遅れたが、もちろん、雷蔵にも語った。彼も「観たい観たい」と残念がった、好漢灰田はヒーローだった。

 こんな灰田さんが、五条大橋の東詰で草野球をしたのだ。今のように、野球は観るものだけではなかった。自らプレーするものだった。野球小僧が多かった時代だったのだ。昭和26(1951)年になると映画『歌う野球小僧』があった。灰田さんの歌う同名の歌も大ブレイクした。日本中に流れ、青年や少年に唄われた。その後ずっと、白い眉毛になるまで、テレビの野球解説で活躍していた別所毅彦さんと、義兄弟の契りを結んだ仲の人でもあった。

 映画『エノケンのホームラン王』(1948年)で喜劇王エノケンさんが、ジャイアンツの背番号0で出演して、笑わせたときがある。この頃も、灰田さんと私たちは、五条通りで草野球をしていた。エノケンさんが、二人の芸者を引きつれて、宮川町の遊郭から、五条大橋に出てきて、灰田さんと私達の試合を、ひょっこり見かけて、しばらく観戦されていたこともある。


◆若林忠志 1908(明治41)年3月1日 ━ 1965(昭和40)年3月5日は、アメリカ合衆国ハワイ準州(現:ハワイ州)生れのプロ野球選手(投手)・監督。ハワイ移民の日系二世。(wikipedia)