五条疎開跡で

・・・雷蔵や灰田勝彦らと草野球・・・

 また、京都国立博物館構内の、芝生でも草野球をした。灰田さんには関係ないが、この時も雷蔵は一緒だった。ロダンの彫刻は、まだなかった。今と違って、建物内を除く構内には外から自由に往来できたのだ。ここはガラスの割れる危険があった。いつもホームベースを、あのクラッシックなレンガ建ての本館の傍に設けた。それで、前に打つぶんには大丈夫だった。しかし後は美術品が展示されているコーナーでなかったが、チップするとまずかった。

 打者の雷蔵も、後方にチップしたことがある。そのボールが、博物館のガラスを割った。みんなは一目散に逃げた。悪いことをした。これが何回か続いて、もう怒られそうなので、この場を敬遠して、お隣の豊国神社前の正面通に草野球の場所を移した。

 秀吉が韓国に出兵した文禄・慶長の戦役での史蹟、韓国兵の死者を供養した耳塚(実際は鼻塚)の近くをホームベースにした。前方に大和大路があり、その向かい側に、秀吉が方広寺創建当時、諸大名より寄進された、巨大岩石の垣が続く、一つ一つに加賀前田家などの家紋が刻まれている。

 我々は、この岩石や豊国神社を目掛けて打った。外野は神社の階段で守った、だれも怒らなかった。乗用車などは、まだ一台も通らなかった。大通りで球技ができた。車は、もっぱら自転車か、営業用の人力で走る三輪(輪タク)か、人力車であった。

 たまに、薪木を燻してガスを発生させる釜を付けて、のどかな煙を出しながら木炭トラックが、ゆっくりと通過した。牛の荷車はさらに、ゆっくりとよぎった。草野球は一時中止である。

 一カ月ほど経たある日、私や雷蔵のチームが、五条疎開跡で博物館の守衛さんに出会った。

 「まずい」と、びびった。すると意外だった。私たちに悪感情が無いようだった。

 「この頃しばらく、博物館に、ご無沙汰だな、たまには構内でマッチしても、見逃したるよ。但し、これ以上ガラスが割れるのは困るからな。注意してや、予算に限りがあるんよ。また来いな」といわれて驚き、好意に感謝した。今まで、見て見ぬ振りをしてくれていたのだ。

 私は、ほっとした。ガラスを割った雷蔵は、さらにほっとしていた。

 大人と少年とに、ほのかな人情の通う時代であった。


河合邦委(かわい くにつぐ)1929(昭和4)年京都市生まれ。1957(昭和32)年京都教育大学卒業。京都市立高等学校教諭歴任。著書:「京の町かどから」(1993)「京の雨と風」(2001)いずれも随筆誌「洛味」掲載されたものをまとめて刊行。