- 出演作品のすべてを語る -

昭和31(1956)年

 三十一年に入り、『花の渡り鳥』は、初めてのお正月映画として、しかも、最初のオールスター映画として、なかなか賑かなものでした。同じ正月作品『又四郎喧嘩旅』は、嵯峨君とのコンビを決定的なものとした作品で、私のものとしても、興行的にヒットした様に記憶しています。現在でも、語りぐさの一つに成っているのが、トニー・カーチスの頭からヒントを得て考案したヅラで、出演したことです。

 当時、一世を風靡していたのが、五味康祐、柴田錬三郎、中山義秀等の剣豪作家達で、スクリーンにも、ブームが乗り移り、私も、その余波を受けて。五味文学の映画化『秘伝月影抄』に、出演させて戴き、剣豪に扮し、思いきって黒塗りにしたが、却って不評をかって失敗だった。

 三隅研次監督と初めてご一緒の『浅太郎鴉』は、私が、映画界へ入る前からの知り合いであって気心もよく知っておられる比佐芳武先生が、私の為に、書きおろして下さったもので、私も大いに張切った甲斐あって、やくざものとしては、非常に好評を博しました。

 次いで好評だった前作の『又四郎喧嘩旅』というドジョウを、今一度、捕らえようと夢見て、作られたのが『喧嘩鴛鴦』ですが、柳の下にドジョウは二匹はいませんでした。

 スチール写真が、非常に綺麗であったことを今でも覚えている、子母沢寛原作で林成年君と一緒の『花の兄弟』、ついで『花頭巾』のロケで、非常に楽しかったのが広島の鞆で、これは、山本さん扮する琉球の皇女が、綺麗で、バックも、エキゾチックだったように覚えています。ただ弱ったことには、私の演った役が、一向に意味の分らぬ人物で、その為に、役柄に、踏切りがつかなかった様です。

 長谷川先生の十八番ものとなっている銭形映画最初の色彩映画が、『人肌蜘蛛』、近藤美恵子さんと、初めての共演。脚本が非常に面白かったことを記憶しています。次いで、笑いの神様と仇名されてた、斉藤寅次郎監督の『弥次喜多道中』は、二枚目半で、とても楽しい仕事でした。

 連日徹夜続きで、大変な撮影だった衣笠作品の『月形半平太』の試写はとうとう見ませんでした。前作花頭巾の続篇『続・花頭巾』は、同じメンバーで、再び、広島の鞆へロケに行き、大きな支那風の船に乗って美しい瀬戸内海を、揚々と、走ったことを覚えています。

 当時の時代劇としては、随分テンポの速い映画で、監督の森先生も大いに力を入れられたのが『あばれ鳶』で、私としては、初の鳶もので、その威勢のいい啖呵には、全く、気を良くしたものです。此の映画で、八木紀子さんが、華々しくデビューしたが、すぐに止めて行った。変り種の女優さんでした。此の年は、十三本という、多数の映画に出演さして戴き、私も、どうにか映画スターとしての地盤を固めることが出来、新しく三十二年を迎えたわけです。