主人公と企画

<対 談> 市川雷蔵 依田義賢

 

感覚は同じはず

依田: それで、もうちょっと話をすすめると、石原裕次郎がいいとか悪いとかは別にして、あの感覚が現代劇で非常に大衆にアピールしているんですが、あの感覚をどう思いますか。

市川: あの人の映画は『狂った果実』を見ただけで、ヒットしてからのものは見てないんで、どうこう云えないんですが、お客さんは、石原裕次郎の演技を見に来てるのではないということは云えるんじゃないですか。

依田: するとその魅力はなんでしょうね。例えば『錆びたナイフ』とか、『俺は待ってるぜ』とか、ま云えばやくざですよ。しかも、あんたも『俺は待ってるぜ』みたいなことはもうやってるわけなんですよ。

市川: 時代劇ではね。

依田; そのどちらのやくざも、受けてる側から云えば大差ないものかもわからない。でも、裕次郎が現代の風俗の中で俺は待ってるぜと云うのと、雷蔵さんが三度笠をかぶってそう云うのと、この二つの間にある違いというものを、俳優の立場を離れてでもいいんですが、感じてらしゃるのはどういうことでしょう。

市川: むつかしいですねぇ。今度現代劇もやってみてわかったのは、根本的にはお芝居をするのに区別の違いもないわけなんですが、現代劇と時代劇というのは何かしら違いますね。

依田: もう一つ云えば、あなたがやった『弥太郎笠』の弥太郎と、石原裕次郎のやくざとは、ちがっているとはいったけれど、逆に、あなたは、弥太郎から『俺は待ってるぜ』みたいな現代もののやくざにすっといけると思っていませんか。つまり感覚の問題なんですよ。

市川: 感覚の問題になってくると、これはその人の大きな社会観とか、みつめる目とかになってくるんでしょうね。

依田: 感覚的には、今度『炎上』をやった方が自然に感じられたんでしょう。

市川: それは自然ですよ。

依田: 自然と云えば、言葉にしても、今日話してるのとそう違わない。時代劇では、どこかで云われたようなセリフを云わんならん。ま強いられたようなものを感じるし、形も肩肘の張るようなことになりますね。それは前からもいろんな形で云ってますが、雷蔵さんが石原裕次郎の隣りへ行って、あの連中と同じような気持でやって、それがまた戻っていって弥太郎のような形でやってみるといったことは、どうでしょう。

市川: 僕は出来ると思いますね。

依田: 僕はね、大衆が、フィクションの強い英雄型で、人を斬りまくるだけを望んでいて、今僕らがしゃべっているようなことは、現代劇にすぎていやだと、そうは思ってないと思うんです。それよりも、石原裕次郎がすっと入って来るとか、雷蔵さんの弥太郎が銀座へ出て行く、そういう平均点を望んでるんではないかということをかんじているんだけどね。それを姿、形でなしに、人間の感情と、それに続いてくるアクションに求めているんじゃないか。そうすると、時代劇のドラマツルギーも事件の設定も違ってくると思うんです。それがいつまでもそういうのと違ったものを企図しているようで、時代劇とはお伽噺みたいなものでいいような、そんなことが、私には気に入らんのですけどね。アクションの前に、現代的感覚、それに納得のできる人間が迫ってきてないと了解できないみたいなものがあるのと違うのですか。雷蔵さんが現代劇をやっただけにそれは面白い。