主人公と企画

<対 談> 市川雷蔵 依田義賢

 

クライマックスが必ずチャンバラである馬鹿らしさ

依田: 今は、テレビという問題があって、非常にイージーなものはテレビへ移行してしまって、本格的なものになると思うんですよ。本格とは何ぞやというと、演技の格調とかいう問題が出てきますよ。脚本も同じことですけど、今のように、消耗品みたいな娯楽作品ではいけなくなってくると思うんです。ま、それはいいとして、描かれる人間に魅力がないとか、ちっとも人間らしくなかったりして、例えば雷蔵君の芸を楽しむというところまでいっていないわな。そうなってくると、あなたたちも追いこめられるかもわからないけれど、やってやったとか、今度はこうしてやろうという意欲をもつ内容になってこないと面白くないわね。どういことになるにしても、脚本の重要なことはわかりますが、それでは、思想的な内容も豊かになり、テーマもがっちりしたものになってくると、それにたえなきゃいけない。

例えば信長のワイルドな魅力といって書いたとする、しかし、ワイルドなだけじゃなしにもっと書かなきゃいけない、すると、劇の組み立ても違ってくるんです。ところが映画は文学のように複雑に書けませんから、単純化しなきゃいけないけど、単純化のしかたが違うでしょう。今までの、どれがというたら悪いけど、どうかすると単純明朗な形で印象づけようとするがために、複雑なものは全部棄ててしまったんです。今度はそうじゃない、そういうもの全部を掴んで凝縮するだけの、シナリオライターとしても努力してやらんならん。例えば、雷蔵さんが非常に純心な一人の青年であるといっても、あなたをめぐるいろんな複雑な問題があるでしょう。そんな人間だってシナリオではなかなか書けないですよ。しかし書くように努力しなきゃいけない。その点はシナリオライターもよく考えないといけないが、企画自体があまりに単調でバカバカしいものでありすぎる、それじゃ気負ってみたってしょうがない。第一面白くなけりゃいけないが、面白いということはとんだりはねたりと違いますからね。

市川: そういうことです。首脳部は、面白いということはとんだりはねたりだと思っておるんでしょうね。楽しませるということは斬ったりはったりじゃないでしょう。僕は時代劇のクライマックスが立ち廻りであることに不満を感じると同時に、情けないことだと思いますね。劇として、そのクライマックスがチャンバラをしなきゃならないなんて・・・。

依田: クライマックスが脱出とか、戦ってどうだという動的なもんではないんでね。人間の、テーマの中での境遇を突破するかしないかであるんですからね。せっかくそこまで追いこんでいっても、チャンバラをせんならんことで類型にされてつまらなくなるんですよ。

市川: 特に娯楽作品と称するものはその傾向が大ですね。ちょっとこの辺がダレルから面白くしようというのが、人物をもっとからませようとか、劇と劇とのテンポを早めてみようとかと違うんですよ。いつも、では立ち廻りを入れようということなんですよ。大変悪口を云うようだけど、清涼剤のようなつもりで立ち廻りを入れるんですね、シナリオの方も。

依田: もうちょっというたら、立ち廻りをせんならん必然性を感じとらへんのと違うか。

市川: そういうわけですね。それで、その立ち廻りも、ほんとなら雌雄を決せんならんのに、悪いのが二十人も三十人もいて正しい方は二人しかいないのに、いいかげんやっといて、引けッと悪い方が引いてしまう。これの引く理由というのは、最後に決着をつけるためだけ、という馬鹿げたのが出て来ますからね。