一、

  市川雷蔵が鬼籍にはいってから、今年は二十三年目にあたる。肝臓がんでまだ三十七歳の生を閉じたのは、昭和四十四年七月十七日の朝だった。全身にがん細胞が回っていたという。「死顔は誰にも見せたくない」という言葉に従って、最後を看とったのは主治医と妻の雅子、それにわずかの近親者であった。そのときから二十三年という時間が流れたのだ。

 もし生がつづいていたなら、今年で還暦になる。

 スクリーンに刻まれる雷蔵には、いつも翳りがあった。どのような役に扮しても、雷蔵の目には人間の業を見つめる光を放った。虚無、哀愁、孤独。その目に出会うとき、観客は人間の悲しみというべき心根にふれていた。雷蔵の翳りは、彼の演技からくるのではなく、彼自身の生来の資質にひそんでいるのではないかと思われた。昭和三十年代半ば、雷蔵は三十代にはいろうとするとき、ファンクラブの集まりでこんなことをいったことがある。

 「人生五十年といわれていますが、せいぜい生きたとしても六、七十年というところでしょうが、この映画の仕事で六、七十までやってやれないことはないとしても、まず渾身の情熱を注ぎうるのは、その半分、四十代くらいまでだろうと思います。そう考えますと、それまでに残された一年一年、一作一作が実に貴重なもので、これをムダづかいしたくない気持でいっぱいになります」

 雷蔵は自らの寿命に諦観をもっていたのかもしれない。だから地肌と演技と渾然一体となったのかもしれない。

 雷蔵の身は滅んでも、スクリーンに刻まれた翳りはいまなお消えてはいない。雷蔵の主演映画が小劇場や自主映画会などで上映されるたびに、そこにはさまざまな世代の人たちが集まってくる。若い女性やサラリーマン、それに大学生の姿も目立つ。母親と娘といった親子連れも少なくない。

 いま“雷蔵ブーム”ともいうべき現象が全国のあちこちで起こっているのだ。

 「雷ちゃんは働きずめで逝ってしまった。次から次に会社の注文にこたえてくれて・・・」

 と、松原正樹はつぶやいて、ホテルの喫茶室のソファに身を沈めた。しばらくの間、瞑目していた。あの働きすぎが身体にさわったのではないかと気に懸かっているという。

 松原は大映の京都撮影所の製作部長をつとめていた。昭和三十八年から四十五年までの七年間だ。雷蔵が出ずっぱりでいたころだった。映画がテレビにくわれ斜陽化しているとき、といっても大映はまだ景気のいいときだった。京都撮影所では、勝新太郎と市川雷蔵というふたりの人気スターをかかえ、ふたりを主役にした映画を次つぎに製作していった。お盆休み、正月休みを狙って、必ずふたりの主演映画をつくり、それで大映の屋台骨は支えられていた。

 撮影所では、ふたりの名をもじって「カツライス」という語が生れていた。このメニューがあれば、他の映画会社には決して負けないといわれた。松原にとっては、ふたりは大映の救世主と映っていた。

 松原はいま六十八歳になる。プロデューサーとして、大映のかっての裏方たち−それぞれ名人芸を誇った裏方たちともう一本だけ映画をつくってみたいという野望に燃えている。雷蔵を懇ろに弔うためにも、のこりの人生で一本だけでいい、いかにも大映出身者たちの映画をつくってみたいというのである。