四、

  雷蔵(本名・太田吉哉)は昭和六年八月二十九日に京都で生れている。父は商社づとめだったが、雷蔵が母の胎内にいるときに出征している。母富久は実家に戻り、章雄(雷蔵の幼名)を生んでいる。が、生後まもなく遠縁にあたる竹内嘉三が養子として引きとりたいと申しでた。竹内はのちの市川九団次である。富久は幼児を手ばなすことにためらいをもったが、周辺の説得に負けて養子として竹内家に托すのである。

養父・九団次と

「侍 市川雷蔵その人と芸」より

  竹内家に養子としてはいってからは、竹内嘉男と名を改める。九団次のひとり息子として、雷蔵は教育を受けている。昭和二十一年四月には天王寺中学に入学している。小学校のころから成績のよかった雷蔵は、この名門中学を卒業して大学医学部にはいり、医師になることを夢見ていたという。身体が丈夫な方ではないうえに、どちらかといえば内向的な性格だったから、歌舞伎俳優になるとは誰も思っていなかったのだ。

 小学時代から中学時代にかけては、戦時下であったので、一時は海軍士官になることも考えたらしい。このころの小学生は海軍兵学校のスマートさや優秀さにあこがれる気風もあり、雷蔵もまたそういう望みをもったのだろう。だが雷蔵自身がのちに友人たちに洩らしていることろでは、近眼のためにはねられてしまったというのだ。

 天王寺中学の二年生になってまもなく、雷蔵は学業を捨てて歌舞伎の世界にはいることになる。このときの芸名が市川莚蔵で、デビューは「中山七里」のお花という娘役であった。

 雷蔵がなぜ歌舞伎の世界にはいる決意を固めたかは、はっきりしていない。当時十六歳の少年にそれだけの確固とした意思があったわけではなかっただろうが、九団次の強い勧めはむろんあったにしても、雷蔵なりにこの新しい時代(戦争が終わったあとの解放感.)の空気というものに魅かれていたと推測することができる。

 ファンクラブの機関誌に、雷蔵はしばしば自ら原稿を書いて折々の心情などを公表している。これを読んでみても幼年時代、少年時代のことはそれほどくわしくは書いていない。だが、十七歳の思い出を綴ったなかに次のような表現が見える。(昭和36年3月31日発行「よ志哉22号」)

 「私が十七歳の頃といえば、終戦の翌年頃で、社会情勢はまだまだ殺伐としていましたし、私も歌舞伎の世界に息づいていた頃ですから、当時は自分の青春をうたいあげるというよりも、むしろみずからの若さを抑えていたことが思いだされ・・・」

 つまり雷蔵は少年時代には自らを抑圧する環境ですごしていたと述懐しているのだ。

 九団次の一人息子として、雷蔵は幼児期には歌舞伎界の子供たちと遊ぶことが多かった。この世界は徹底した階級社会で、九団次はそれほど恵まれた立場にあったわけではないから、雷蔵も下積みの苦労をしたと思われる。名門の子供と相撲をとって意識して負けると、彼らについている女中から飴玉がもらえるという社会である。雷蔵はこんなときも決して負けなかった。本気で投げとばしてしまう。こんな具合だから、仲間内の世界では、なにかといじめられる対象であったらしい。それでも雷蔵は泣き言をいわなかったし、どのような妨害をされてもじっと耐えるような性格を培っていった。