歌舞伎役者としてデビュー後、四年ほどたってから歌舞伎界の大物市川寿海が、雷蔵を養子として面倒をみたいと九団次に申しこんできた。雷蔵の才能に注目したのである。九団次も梨園の将来を考えればこれを受けいれたほうがいいと考え、雷蔵に養子として入ることを勧めた。雷蔵はこのときに初めて自分が九団次の実子ではないと知って衝撃を受けている。

 昭和二十六年六月、「白浪五人男」も赤星十三郎役で市川雷蔵としてのデビューを行なった。このとき嘉男を吉哉とかえている。市川雷蔵は八代目にあたるが、江戸時代の後期からはこの名で名前をのこすような名優は生れていない。

 

市川雷蔵襲名披露口上
「平凡スタア・グラフ」より

 市川寿海にたいして、雷蔵は尊敬の念をいだいていた。ファンクラブの機関誌で述懐しているが、左団次の自由劇場に参加して日本の翻訳劇の先駆者としての役割をはたしているし、松竹に反旗をひるがえして東宝劇団を組織していると賞賛している。このころは関西歌舞伎を担っているが、その人物に目をかけられたことに誇りをもったと思われる。が、つごう三年余、雷蔵は寿海の養子として舞台をふむが、実際にはこれといったあたり役をもつに至っていない。雷蔵は歌舞伎の世界の空気になじめぬ肌合いをもっていたのだ。

 昭和二十九年に雷蔵は、大映京都撮影所長だった酒井箴に勧められて、映画界に入ることを決意する。当時、大映では新しい時代の時代劇スターをさがしていて、それには歌舞伎界から引きぬくのがてっとりばやいと若手にさかんに声をかけたのである。雷蔵はその第一号であった。のちに次のように述懐している。

 「(父寿海は波乱の多い経歴をもつ情熱的な人だが)歌舞伎の後継者として、私を育成すべきところを、私が映画に入ってしまっても、それを了としてくれたのであり、それが単なる歌舞伎の世界に限定しない芸術一般に対する考え方の現われと、私は私なりに解釈しています」

 雷蔵が、映画という新しいジャンルにとびこむ決心をしたのは、誰に相談してのことではない。自分なりに結論をだしてのことであった。この世界には、芸よりも血筋が大事にされるという慣習はないし、なにより直接大衆に接してその作品の良し悪しがはっきりするという単純さがある。雷蔵はそこに自らの人生を賭けてみることにしたのだ。

 映画界に進むことになって、雷蔵はよく映画館に足をはこぶようになる。中村錦之助という、東映の時代劇スターの演技を研究し、彼にひそかにライバル意識を燃やしたためである。