お染久松の可憐でいじらしい恋物語りには、
どこまでも主従という関係が表現されている。

 

『新版歌祭文 野崎村(しんぱんうたざいもん のざきむら)』 -お染久松-

◆解説

 近松半二・作。安永9年(1780年)9月、竹本座にて初演。宝永年間(1704〜1711)に起こったとされる、大坂板屋橋の油屋・天王寺屋の娘染と丁稚久松(又は手代七兵衛)との心中事件は、たちまち歌祭文となって人口に膾炙した。
 本作は、正徳元年(1711年)初演の「心中鬼門角」(紀海音)、同2年(1712年)初演の「お染久松 袂の白絞」、明和4年(1767年)12月初演の「染模様妹背門松」(菅専助)等を踏まえて作られた、『お染久松』物の代表作であり、現在は歌舞伎・文楽とも「野崎村」の段だけが上演される。
 

◆あらすじ

 お染は大坂・瓦町の質見世、油屋の娘。親の決めた許婚がいながら丁稚久松とは恋仲だ。お光は久松の養父久作の後添いの連れ子という義理の仲。そのお光を久作は久松と添わせたいと思っている。当のお光も久松を好いていて、久松の妻になる日を夢見ている。

 ところが、久作のもとに久松が戻って来る。そこへ、久松の後を追って恋仲のお染も訪ねて来た。二人は心中を覚悟していたのだ。それと知ったおみつは、自ら尼姿になって、二人に添い遂げてほしいと願う。娘の身を案じたお染の母もやって来て、お光に感謝する。お染と久松は船と駕籠に別れて、大阪へと、帰って行く。

◆縁の地

野崎観音(お染久松比翼塚)

 大阪府大東市野崎にある曹洞宗寺院で、福聚山慈眼寺(ふくしゅうざんじげんじ)と云う。行基作と伝えられる十一面観音が本尊。5月1日から10日間行なわれる無縁経の法要が「野崎参り」と呼ばれているもので、昔は大坂から屋形船が行き来をしていて、舟運でお参りする人と陸を歩く者が互いに罵り合って、競り勝てば一年の幸を得られると伝えられた奇習で有名であった。

 野崎詣りは、祇園のおけら詣り、金毘羅さんの鞘橋の行交いと並んで関西三詣りの一つに数えられている。東海林太郎の「野崎小唄」で歌われているのはこの野崎観音のことで、境内には「お染久松の比翼塚」がある。この塚の前では、久松をお染にゆずって堤の上でしょんぼりと立ち尽くした、許嫁のお光の涙が偲ばれると云う。近松作の「女殺油地獄」も野崎観音が舞台となっている。

お染久松比翼塚

歌祭文とは?

 祭文(さいもん)とは、祭りの際に神にささげる祝詞(のりと)のこと。歌祭文は近世俗曲の一つで、中世以降、死刑・情死などの事件やその時々の風俗をつづった文句を、門付け芸人が三味線などの伴奏で歌って歩いた。元は山伏修験者が錫杖(しゃくじょう)を振り鳴らし、ほら貝を吹いて、神仏の霊験を唱え歩いた祭文の芸能化したもの。上方に始まる。