三十一年に入り、「花の渡り鳥」は初めてのお正月映画でもあり、最初のオールスタアもの。次いで同じ正月作品「又四郎喧嘩旅」は私のものとして初めて興行的に大ヒットして、嵯峨君とのコンビがようやく定評を生むようになった。トニー・カーティスの頭からヒントを得てヅラを考案したのもこの作品だった。

 

剣豪ブームに乗って生れた五味文学の映画化「秘伝月影抄」は思い切って黒塗りにしたが、それが却って不評をかって失敗した。三隅研次監督と初めてご一緒の「浅太郎鴉」は、比佐芳武さんが私のためにシナリオを書いて下さったものだけに、やくざものとしては好評だった。次いで「喧嘩鴛鴦」は又四郎が意外のヒットを放ったというので、続篇のつもりだったが、柳の下にどじょうは二匹といなかった。

子母沢寛原作の「花の兄弟」は映画の思い出よりもスチールが大へん綺麗だったことを覚えている。山本さんが琉球の皇女になってバックはすこぶるエキゾチックだった「花頭巾」は、実のところわけのわからぬ役で大いに弱った。でも広島の鞆ロケは楽しかった。娯楽作品にも色彩がつくようになった最初の銭形映画「人肌蜘蛛」で近藤美恵子さんと初めて共演、これは概して面白い脚本だったと思う。続く「弥次喜多道中」は初めての斎藤組で、三枚目の方ばかりの中で楽しい仕事であったことを記憶している。

私の出演作品の中で遂に最後まで見る機会のなかった唯一の映画は「月形半平太」だが、衣笠作品だけにそれこそ連日徹夜続きで大へんな撮影だった。前作の続篇「続花頭巾」は同じメンバーで再び鞆へロケに行ったが、大きな支那風の船に乗って瀬戸内海を走ったのを覚えている。初の鳶もの「あばれ鳶」では八木紀子さんがデビューしたが、すぐ止めて行った変り種の女優さんだった。森先生が大変力を入れ、ずい分テンポの早い時代劇だった。