1961年12月の、クリスマスも終ったひどく寒い夜、藤井氏と二人で、松竹ピカデリイで「ウエストサイド物語」の試写を観たあと、氏は腕時計に目をやって、いった。

「明日、雷ちゃんが婚約発表の記者会見をやるんだ」

雷ちゃんが結婚する決心をしたことは、私も前から知っていたので、「ああそうなの」と、軽く、答えた。

週刊誌やスポーツ新聞の、どの一社にスクープされてもまずいので、今夜ひそかに雷ちゃんは上京してきて、もうこの近くの旅館に隠れているはずだ、と藤井氏は、つづけた。その頃から、マスコミの取材合戦は、気違いじみた様相を呈しはじめていた。

「外へも出られないし、一人で退屈しきっているだろうから、ちょっと寄って、ダベらない?」という藤井氏のあとについて、場所はすっかり忘れたが、銀座裏の目立たない小さな旅館に入って行った。

六畳の部屋で、火鉢の灰を所在なく突っついていた雷ちゃんは、私たちの顔をみると、嬉しそうに白い歯をみせて笑った。

午前一時すぎまで、そこにいた記憶がある。仕事の話ばっかりだった。

「いずれ正式にお願いにいくつもりやったのやけど」と変にあらたまって、雷ちゃんは、私にいった。現代劇を書いてくれないか、という頼みであった。そいつが歩いていったあとにはなにやら血の匂いのこもった風が、すっと走りぬけるような犯罪者タイプの現代青年の役を、演じてみたい。病んだ現代社会の瓦礫の中から生まれでてきた青年を、どうしても演じたいのだと、氏は熱心に語った。

私に、異存はなかった。創作意欲をかきたてられた。貧困による疎外とった図式は、もうつまらないから、青年の権力指向に焦点をあわせた方がいいんじゃないか、と藤井氏がいい、私たちは、時間が経つのも忘れ、熱っぽく、話しあった。

私が構想をねるという結論で、その夜はおひらきとなった。

しかし、目先の仕事に追いまくられて、気にはかけていたのだが、私は雷ちゃんの仕事に、本格的にとりくまなかった。

62年の一月の中旬、雷ちゃんは藤井氏と一緒に、私の家へ現れた。氏は、少しは構想がまとまったことを期待しているようだったが、なんの用意もない私は、話題をそらせ、雑談で誤魔化す以外、方法がなかった。べつに、がっかりした様子もなく、氏は、

「急ぎはしませんが、その代り、素晴しい作品を、よろしく」といって帰っていった。

その後も、私は雨あられと襲いかかってくる映画やテレビの脚本に追われつづけ、雷ちゃんの現代劇を考えるゆとりがなく、不本意ながら、放置しておいた。

62年三月、大映70ミリ映画「秦・始皇帝」を市川崑氏が演出することにきまり、そのシナリオを、和田夏十氏と私とが書くことになった。結局、それは、あとで市川崑氏のプランが永田社長のイメージとあわず、流産して、監督も脚本家も別の人にバトン・タッチされて製作されたのだったが、そんな結末をまったく予想し得なかった私は、とりあえず、市川監督と打合せをするために、和田夏十氏と一緒に、京都へ行った。市川崑氏は、京都撮影所で、雷蔵主演の「破戒」を撮っていたのである。

なにも考えていないまま、京都で、雷ちゃんに会うのが、ひどく心苦しかったが、どうにもならない。

京都へ着いた翌晩、雷ちゃんは、市川・和田夫妻と私を、嵐山の「吉兆」に招待してくれた。私は、雷ちゃんに悪くて、終始、目をふせていたのだが、ふいに氏は、私にむかって、

「少しは進みましたか?」

と訊いた。

困って、曖昧な微笑を浮べている私から、目をそらすと、雷ちゃんは、一寸も考えてくれないんですよ、冷たいんだなあ、と市川監督に訴えた。

「いや、そんなもんなのや、シナリオライターちゅうもんは」市川氏は半ば冗談めかして、あっさりと答えた。「頼まれれば、一応はOKする。けど、締切りがなかったり、製作スケジュールに、きちんとのっていない仕事には、なかなかミコシをあげないのやな」

雷ちゃんの顔に、信じきっていた人間に、突然裏切られたときのような、失望の影が一瞬走って消えたのを、私は、見逃さなかった。

弁解したいと焦ったが、市川崑氏の言葉は、確かに一面の真実をついていて、それをひっくり返すだけの根拠は、私には丸っきりないのだった。

頭の回転の早い雷ちゃんは、座の白けかけるのをふせいで、すぐさま話題を変えたが、私は、今だに、あの瞬間の氏の表情を忘れられない。