映画にほれて

聞き書き 田中徳三監督

 半世紀以上たった今も、忘れられない強烈な思い出です。1947年11月大映京都撮影所に助監督として採用され、初出勤した日のことです。助監督のボス格の人に連れられ、所長室にあいさつに出向きました。

 当時はまだ、戦前にできた日活京都撮影所の建物を使っていました。チョビヒゲの所長は古ぼけたソファに座ったまま、直立不動の姿勢の私に言い放ちました。「会社は海のものとも山のものともわからんお前に、サラリーを渡して教育する。本来なら授業料をもらうのが筋だ」追い打ちをかけます。「会社は何の期待もしていないのに投資するということだ。やめたければいつやめたって構わない」

 将来、監督になれる保証はないと宣言されたようなものです。これはえらいところに入った、と思いました。

 <第二次世界大戦中の42(昭和17)年、国家による映画産業の統合で、日活の製作部門、新興キネマ、大都映画が合併し、大日本映画製作株式会社が発足した。戦後、大映株式会社に改称され、71(昭和46)年12月、映画界の不況により倒産する。>

 大映は東京に本社があり、東京の撮影所で現代劇、京都の撮影所で時代劇を作っていました。京都撮影所の所長は重役です。今の時代だったら、新入社員にそんな発言をする重役がいますか。せいぜい「これからは頑張って仕事に励んでほしい」が普通ですよね。

 採用されたとはいえ、まだ試用でした。正式に社員となれたのは4ヵ月後の翌年のことです。あいさつだけして、意気消沈したまま帰宅しました。

 大阪市で生まれ育ち、関西学院大時代は、演劇研究会で演出を担当していました。フランスの歴史劇なんかを年に1-2度、公演していたんです。

 学徒で召集され、44(昭和19)年1月、陸軍に入りました。自分の人生は終わった。そう感じました。大戦末期の大変なときで、とても無事に帰ってこられるとは思えませんでした。大阪の連隊に配属され、マレー半島に行き、終戦はスマトラ島(インドネシア)で迎えました。捕虜生活を経験して、46(昭和21)年6月ごろ、名古屋港に戻ってきたんです。

 もうそこらへんでいいでしょう。戦争中のことに、今はあまりふれたくない心境なんです。大学の先輩に誘われ、大阪で舞踊団の舞台監督的な手伝いをしているとき、新聞社の京都支局にいる兄に、助監督募集を知らされました。

 以前から洋画が好きで、外国の映画理論も学び、いっぱしの映画青年のつもりでいたんです。映画界に入りたくて、試験を受けました。筆記はなく、面接だけでした。伊藤大輔、稲垣浩のそうそうたる監督のほか、各部長、助監督が試験官でした。何を聞かれたのか。細かいことを思い出せないんです。とにかく、すさまじいまでに、こてんぱんにやっつけられてました。

 控室に戻ると30〜40人の受験者がいました。何人採るかわからないし、半ばあきらめていたら、一週間ぐらいして、京都の兄のところにいた私のところに通知が届いたんです。そのとき採用されたのは、結局、自分を含め二人だけでした。

 78歳の現在まで、それから50年余り。映画という青春とともに駆け抜けて来ました。大スターがどこまでも大スターだった日本映画の全盛時代から、落ち目になった今まで、ずっとこの目でみてきました。面白い経験でした。監督の仕事のことや熱気にあふれていた撮影所、私と同じように映画が大好きだった俳優、裏方さんたちのことなどを、これから少しずつお話していきます。


 太秦大映京都撮影所跡碑の前で(02/10/03)