『新平家物語』の清冽、『月形半平太』の颯爽、『薄桜記』の哀切、『ぼんち』の洒脱、『歌行燈』の色気、『斬る』の気魄、『眠狂四郎』の虚無、『ある殺し屋』の孤独・・・様々なイメージをスクリーンに定着させた市川雷蔵が37歳で夭折(1969年7月17日午前8時20分)して21年。

 しかし、時間の流れに逆らうかのように、雷蔵追慕の声は高まるばかりだ。いったい、誰がどんな思いで過去のスターの幻影を追い求めているのだろうか。スターらしい華やぎと市井人の堅実をあわせ持った市川雷蔵の魅力とは・・・。

 

 

 

キネマ旬報90年12月上旬号より

 

美貌の中の「かげり」の本質

 二つの石燈籠に気づく観光客もほとんどなく。それはまさしくひっそりした感じでそこに建っている。養父母が二組いるということから分る通り、雷蔵は二度も養子に行っている。ということは、その前に実の両親がいたということになる。昭和三十六年正月に、雷蔵の二度目の養母である寿海夫人らくの死の知らせがあった時、彼はいつも一緒に仕事をしていた田中徳三監督にこう言ったそうである。「ぼくなあ、母親というひとと別れんの、これが三度目ですねん。複雑やからなあ、だから大概のことは平気やわ」。

 私はこの薄幸の美男スターの生まれ育ちが凄く知りたくなった。あの美貌のなかに感じられるある種の“かげり”というものの本質がそこに見出されるのではないかと思ったからである。彼の実母が京都堀川丸太町の手芸材料や糸綿を扱う古い商家の娘で、中尾富久というひとだったことは分かった。だがそのひとの行方はどうしても分からなかった。当時の週刊誌によれば、雷蔵がスターになってから、実の母というひとが名のり出てきて、彼はそのひとに会ったことになっている。が、それが彼の本物の実母であるかどうかは雷蔵自身にも分からなかったろう。彼はこの出会いについては、幼少の頃から彼のマネージャー格だった森本房太郎にさえも一言しか報告していない。

「会うてきたわ」

(08/23/69発行)

  結局、私は三十人ぐらいの関係者にあって生前の雷蔵についてそれぞれの角度から話してもらったのだが、中でも勝新太郎が大映同期入社にもかかわらず、三味線弾きの出ということで歌舞伎界の名門の出である雷蔵に大差をつけられて、それをはね返そうと執念を燃やした話などは興味深かった。彼の死の知らせを聞いたとき、勝新は泣きはしなかったが、眼の前が真白になるほどの衝撃を受けたという。