ところで、このセットの中には、一体何人の人間がいるかと云うと−。

 監督、俳優、撮影、照明の外、カメラ助手四人、色彩設計一人、録音助手四人、美術監督一人、助手一人、装置二人、装飾主任一人、助手二人、照明助手二人、床山二人、衣裳一人、結髪二人、助監督三人と四十人近い人数がいるわけである。この外に、俳優の附き人、宣伝課員、取材する記者などを入れると、ざっと四、五十人の人間がいるわけである。一本の映画が出来るには、こう云ったいわゆる裏方の力が大きいわけです。やがて、本番テスト、本番。本番の声がかかり、本番を知らせるベルが鳴ると、何十人と動いているセット中は、針が落ちても響くぐらいの静寂さとなる。そこに、雷蔵の、低く、暗く、沈鬱そのものと云った、せりふが響く。

 「父も尺八が好きであった」「弾正さまが」暗い宿命の二人が、捨て去った、遠い故郷を思い、病身の父を偲ぶ、ところに外に竜之助を訪れる声がする−ところで「カット」の声がかかる。「ハイO・Kです」たちまち、またセットにざわめきが起り、カメラが動かされ、ライトがあちこち動く。雷蔵は一人椅子に腰かけ、久し振りに晴れ渡った秋日和の午後、第五ステージの前は、折からの見学者で黒山の人だかりである。さっそく何事だとのぞいて驚いた。市川雷蔵、山本富士子、中村玉緒、本郷功次郎と、この映画の主人公たちが、にこやかに肩を並べて立っている。この四人、映画の中では同じ場面に顔を合わす所がないのだが、それだけに一カット千金の光景にうまく出合ったわけである。

 レフ(太陽光線を反射させる銀板)が、あっちこっちからピカピカ光り、正面にカメラが据えられ、ジーッとまわっている。予告篇の撮影で、日本映画界のホープでもあるこの四人のスターが顔を合せ、お客様への御挨拶という一カットだった。



 予告篇の撮影が終って、すぐ本篇の撮影である。ステージの中は、江戸へ出た机竜之助のわび住い中で外は昼間であるのに何となくどんより陰にこもった感じの家の中である。建込みは三間であるが、今日の撮影は二間が使われて、照明のとりつけ、手前の部屋の中程に小型クレーンを移動車に乗せてそこにカメラを据えるのに、スタッフの人たちが急がしそうに動いている。その日の撮影は終ったはずの本郷功次郎が、誰かを探して出たり入ったりしている。使わない暗い部屋で雷蔵と玉緒が向き合って腰掛け、雑談をしながら待っている。雷蔵が、いきなり大きな声を上げて大きなアクビを始めた。

 準備が出来て、テストが始まる。お浜の玉緒が雷蔵の竜之助にいよいよ相想ををつかし、かッとなり、竜之助の脇差を抜き取るなり生まれたばかりの赤ん坊を刺し、自分も死のうとするのを、竜之助が止め、脇差を奪い取るカットである。奥の部屋から赤ん坊の寝ている手前の部屋の玉緒が「坊や、お前も私も一緒に死んでおくれ」と叫びながら血想を変えてとび出して来る。すぐ後を雷蔵が「何をする」とおどりかかって脇差をひったくる、畳に手を突いて倒れかかる玉緒が血の引いた顔で雷蔵を見上げる。雷蔵は、一瞬前の出来事などなかったような無表情な顔に変って脇差を腰のサヤにおさめる。そしてぞっとするような冷たさで玉緒を一べつして「死ぬとも生きるとも勝手にせよ」と云う。カメラは、玉緒の顔雷蔵の顔、玉緒の顔雷蔵の顔と移動車とクレーンをフルに使って、さながら獅子舞いの獅子の首のように、前後上下左右をめまぐるしいほどの激しい動きを見せていた。今日の出番はないが、山本富士子が、カメラの後に坐って見学していた。

 大菩薩峠の麓の近くの沢井村にある大きな机屋敷の一室、柱も梁も黒く、壁は白くくすんだ灰色をしており、心なしか今日のステージは机屋敷のようにガランとしている。低く据えられたカメラのフレームからのぞくと、スコープ・サイズのせいもあるが、部屋の中央に黙して座っている竜之助に何かが押し被さるように静かで陰惨な兆の感じがただよっている。この物語の発端の一つである、御嶽神社奉納試合に宇津木文之丞に勝負するという組状を、机道場の門弟からせられ、それを静かに見終わった後のカットである。セリフは無い。じっと考え込んだような竜之助の雷蔵を残して、組状を持って門弟が部屋を出る。雷蔵の横顔は、ただ青白くすき透るだけで、何の感慨も動かない。だが、心の中は愛刀武蔵太郎安国の妖しいまでに鋭く激しい刃が何かに交錯しているのである。やがて、その顔がフト庭に向けられる。石垣伝いの石段を、米俵を背負った与八の姿が眼に入る。そのタイミングを間違えないようにと、三隅研次監督の声が掛かる。