残酷ブームを斬る

突破口


   

  数年前、ディズニー映画の『失われた大陸』を見たが、昼なお暗き密林で行われている猛獣同士の生きる為の戦いは実にすさまじい。彼等は弱肉強食であり、その生存競争に打ち勝つために、残酷な行為を相手に加える。そしてこれは人間の世界でもいえることだろう。民族と民族の戦いがあの悲惨な第二次世界大戦を生み、又、ひとつの国の中でも、同国人同士が血を流しあっている現状である。問題を一個人にしぼっても、彼は自己保全のために隣人と争わねばならない。現代は残酷なことで満ちている。

 時代劇は、そこに表現された社会機構や風俗が過去のものであっても、現代と無関係では決してあり得ない。現代に生きる人間が製作者であり、観客なのである。だから、現代を真正面から瞶める時、残酷と思われるような事象を取り上げるのも当然の理であると思う。眼かくしをしたり、薄絹を通して描いた時代劇も、それなりに娯楽として価値があるかもしれないが、観客に現実感を与えることは、なかなか難しい。立回りひとつを取り上げてみても、今までは、あまりにも舞踊化したものが多かった。刀と刀を突きつけあい、最も緊迫した瞬間であるはずなのに、構えの型の美しさのみにとらわれがちであった。 

 最近は、その型をくずすことによって、よりリアルな観点から人物の行動を表現しようとする動きが目立ってきた。立回りは殺人を表現しているのだから、人を切れば血が出るのは当り前ののことである。その当り前を当り前としないきれい事の時代劇に、現代の観客は倦きが来ていると思うのは僕だけだろうか?だから残酷といわれる時代劇が受け入れられると思うのは、僕一人の合点だろうか?

 しかしながら、その残酷性も、あまりにも無惨な表現故に現実感を通りこして、加虐趣味的と非難を受ける事もあろう。「恋に恋する」という言葉がある。「残酷のための残酷」というべきだろうか。何等の必然性もなく、単なる悪趣味な装飾品として残酷な表現を用いるというような方向に走る恐れは充分にある。だから僕達映画製作にたずさわる者は、その作品に表現された残酷性の意義とか、価値をしっかり把握して、冷徹な態度でのぞむべきだろう。