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1956年8月14日(火)公開/上映時間1時間22分大映京都/カラースタンダード

併映:「スタジオは大騒ぎ」(水野/東京撮影所オールスター)

製作 永田雅一
企画 酒井箴
監督 森一生
原作 野村胡堂/河出版「銭形平次全集」
脚本 小国英雄
撮影 杉山公平
美術 西岡善信
照明 伊藤貞一
録音 大谷巌
音楽 斎藤一郎
助監督 池広一夫
出演 長谷川一夫(平次)、山本富士子(お品)、矢島ひろ子(染吉)、堺俊二(八五郎)、夏目俊二(新吉)、東野英治郎(尾張屋伝右衛門)、黒川弥太郎(笹野新三郎)、近藤美恵子(お絹)、阿井美千子(お静)、中村玉緒(女中お千代)、入江たか子(板倉屋おれん)、見明凡太郎(三輪の万七)
惹句 『銭形平次の天然色化色に秘められた謎の絵解きに、グッと加わる面白さ』『世にも怪奇な難事件を、平次がズバリと色で解決天然色ならではの面白さ』『天然色でないと解けない錦絵の秘密神田祭を血で染める謎の復讐魔に、敢然挑戦する銭形平次これぞ日本一の捕物映画

[ 解 説 ]

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 日本の色彩映画も、試作の域から量産の時代に入った感があるが、『地獄門』のアカデミー獲得で一躍日本のカラー技術の優秀さを世界に誇った大映が、最低月一本のカラー映画の製作を決定したのは当然であろう。この趣旨による第一作が『人肌蜘蛛』で、刺青連続殺人事件の被疑者が持っていた浮世絵に描かれた色とりどりの十二支から事件解決の糸がつかめる、というカラーを生かした娯楽作品。

 脚色小国英雄、監督森一生、撮影杉山公平。出演者は長谷川一夫、阿井美千子、堺駿二ほか、市川雷蔵、黒川弥太郎、山本富士子、矢島ひろ子など。(キネマ旬報より)

                                     

山根貞夫のお楽しみゼミナール

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 長谷川一夫が銭形平次に扮する人気シリーズは1949年から始まったが、『銭形平次捕物控・人肌蜘蛛』はそれのちょうど十本目で、初のカラー作品である。

・・・日本一の長谷川平次が、世界一の大映カラーで総天然色映画になって、興趣が百倍!これはこの映画の惹句で、当然ながら初のカラーということを強調している。また、画面を見れば、ドラマ上でもカラーに合わせて工夫がなされており、銭形平次は浮世絵に描かれた色とりどりの十二支を手がかりに事件の謎を解いてゆく。

 それにしても、長谷川一夫の銭形平次が日本一であるのはだれしも認めようが、あとのほうの“世界一の大映カラー”とは何のことであろうか。明らかにこれは、大映のイーストマンカラー第一作『地獄門』(1953)が1954年にカンヌ国際映画祭でアカデミー色彩賞を受賞したことに基づいている。じっさいこの当時、大映のカラー撮影技術は他社を引き離していたのである。

 この『人肌蜘蛛』の見どころは、カラーであることのほか、もう一つ、長谷川一夫と市川雷蔵が共演していることであろう。二人は当時、時代劇スターとして、追いつ、追われつの関係にあったが、この四本目の共演作品でも、いい勝負を見せてくれる。

 この映画は、また、森一生監督と市川雷蔵の出会いの作品で、このあと二人はコンビを組むことが多くなる。何しろ市川雷蔵の全出演作品153本のうち三十本を森一生が撮った。森一生の撮り方の特徴は、キャメラを引いたロングショットが多く、アップがきわめて少ないところにあり、そこから独特の美感が生まれる。これでは天下の美男スター・長谷川一夫などは、アップの少なさに不満をもらしたのではないかと思われるが、そうでもなかったという。そういえば、アップこそ多くはないが、あくまで平次のカッコ良さはきちんと撮ってある。

X月X日

 今日から、いよいよ森組『人肌蜘蛛』の撮影に入る。天然色映画に出るのは、去年の夏の『新・平家物語』以来だ。大映ご自慢の冷房ステージが、附近の道路工事のためにこわれて、冷風がサッパリこない。暑いことは殺人的だ。

 仕事は二時ごろに終ったので、久しぶりに町へ出て、南座の関西歌舞伎を見る。しばらく見ないうちに若い人が進出しているのが目立つ。評判の学士歌舞伎もこれに出ているのだろう。歌舞伎の平均年齢がこれまでよりずっと若くなっていて嬉しい気がする。ぼくもとにかく舞台人なのだから、久しぶりに見た舞台の魅力にいつの間にかひきつけられていた。夜には川崎(敬三)君、和子(市川)ちゃん、コン(近藤美恵子)ちゃんたちと待ち合わせて円山の瓢亭で御飯を食べた。

X月X日

 森組のこれまでのところのラッシュを見る。『人肌蜘蛛』は銭形平次を主人公にした世話物なので、天然色ともなれば、心配していたヅラの羽二重の重ね目が、まだ上出来とはいえない。今後、もっと研究をしなくてはならないと痛感する。

 撮影は、コンちゃんのお絹が、悪者のために強い眠り薬を飲まされて、死んだものとして棺桶に入れられているところを、長谷川先生の平次、堺駿二さんの八五郎、ぼくの新次郎などが、葬儀屋に化けてしらべにくるところ。役とはいえ葬儀屋になったのは生まれて初めてだ。長谷川先生らとともに祭壇の飾りつけをやったのだが、おかげでぼくも永生きができるかもしれない。

X月X日

 今日は午前中仕事がないので、引越して間のない家の整理をする。大阪や京都から運んで来た荷物の整理で一汗かいた。とにかく、今度は山手の方にある家なので、虫の多いことは天下一品だ。クモ、ムカデ、ヘビ、ヤモリ等々、気味のわるい虫は一通り揃っている。

 整理のついでに、これらの虫のボクメツ運動に乗り出し、付近の薬局で、ありとあらゆる殺虫剤を買って来て方々にこれをふりまいた。ただし効果があったかなかったか、現在のところ戦果不明だ。仕事は五時の定時に終ったので、成年さんを家に招んで来て麻雀をやった。また、いただきである。(「明星」56年8月号より)

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写真はいずれもお祭りのシーン

右から長谷川一夫、阿井美千子、堺俊二

山本富士子と堺俊二

七日七晩のお祭騒ぎ

☆大衆作家野村胡堂氏の生みだした、江戸時代のもっとも庶民的な英雄ともいうべき名探偵銭形平次に扮した長谷川一夫が、もっとも庶民的な江戸の祭といわれた神田明神の豪華な祭礼風景をバックに活躍し、スリルとサスペンスに満ちた事件を解決、しかもそれがはじめて天然色で描き出されるというのが、いま大映京都で撮影中の森一生監督の『銭形平次捕物控・人肌蜘蛛』であるが、以下その撮影うらばなし━。☆

暑さと蚊に悩まされ

『人肌蜘蛛』(大映)神田祭の猛撮影

 江戸時代の神田祭はきわめて庶民的でしかも大規模な祭礼だったが、この山車行列はとくに江戸城内へ入ることを許され、踊りを将軍の上覧に供したということから、幕府的なものを一切嫌う明治政権からその豪華な山車練物を禁じられたといわれ、現在わずかに古図などによって昔の面影をしのぶよりほかになくなったが、それをこんどの『銭形平次捕物控・人肌蜘蛛』で本格的に復元したのだから、その撮影のたいへんだったことは、まったく言語に絶する有様だった。

 なにしろ劇はさいしょの佃島の島破りのシーンを除くと、あとはすべて背景は神田祭、屋外のシーンは絶えずそのバックにはいつも祭の群衆が動いているのでその群衆の処理だけでも、手間を食うことおびただしい。

 まして、こんどの『銭形』は天然色だけに、この群衆の衣装の色彩の配合やバランスにも頭を使わねばならぬわけ。森一生監督は「ちかごろ色を意識させない天然色映画ということがよくいわれるが、私はその逆に『人肌蜘蛛』では思いきり色を使って、江戸時代の庶民風俗を出してみた」と語っており、またスケールについても「従来の平次物にない大きさが出るだろうと思っている」と、この点でも自信あり気である。スリルとサスペンスの追跡シーンも、さいごの平次の大捕物も、すべて背後に祭礼が進行していることになる。

 この祭礼シーンの高潮場面は、すべて撮影所の東オープンにこんど作られた半永久的な江戸の街のセットで七日七晩にわたって 撮影されたが、なにしろこの東オープンといえば、所内とはいえ、松竹の撮影所と境を接しているくらい遠隔の地、スタッフはまるでロケーションに出かけるくらいの大騒ぎだった。しかも毎日毎夜、俳優、エキストラまぜて六百人から千人ちかくの出役が出るというので、衣装部、美粧部、結髪部、装飾部の手間のかかることも論外で、たとえば結髪部など毎日朝六時から十五、六人の髪結いさんが総出で、二百人近くの髪を結って、やっと十時すぎの撮影に間に合わせるというテンヤワンヤをつづけた。

 なにしろ昼は七月末という一年中で一番暑いシーズンの炎天下の撮影であり、夜はさすがに日中とちがって涼しいが、そんのかわり四千坪の地を不夜城化した四百キロをこえるコウコウたるライトに、太秦中のカやガが集まってきたと思われるくらいの猛烈な虫群の襲来に悩まされ、毎夜十一時までの猛撮影が一週間つづいたのだから、スタッフはまったクタクタにまいってしまって、ある助監督氏など、いまや山車を見るたびにノイローゼになりそうだと、述懐しているほどだった。(西スポ08/01/56より)

[ 梗 概 ]

 風雨の激しい或る夜、江戸の沖合を海岸に向って必死に泳ぐ二人の男がいた。ガン灯を照しながら彼らを追う船の上に、鉄砲方を先頭にした役人たちが乗込んでいるのでも知られる通り、彼らは佃島に流された囚人で、年老いた方は、松五郎、若い方は新吉と云い、その夜牢を破って脱走を企てたのだった。だが松五郎は海岸に着く前に銃弾を背に受けて水中に没し、新吉ひとり背中の不気味な蜘蛛の刺青を水に光らせながら先に進んだ。

 さてその翌朝、神田祭に賑わう江戸、隅田川べりに背に匕首を刺された土左衛門が上った。五十がらみの茶センまげの男の死体を改めた目明し、三輪の万七は医者を職とするものだろうと判断したがわからないのは背中に蜘蛛の刺青がありまた財布の中に東海道五十三次の浮世絵の“三島の宿”の絵を入れており、それに白い龍が大きく描かれていることだった。

 一方同じ隅田川の土手で同じ頃、孤独な二人の若い男女がめぐりあった。男は上州から出てきた焼物師新次郎と云い、たまたま川べりを通りかかって、水面をじっと見つめている女の様子に心を動かされ問いかけると、女は木場の大問屋上総屋の奉公人お絹だと名乗り、親のない境遇を語ったが、男に励まされて宿を探すために一緒に岸に上った。

 やがて神田明神境内に宵宮の賑わいが訪れた。おなじみの目明し銭形平次も今宵は江戸っ子らしく楽しく過そうと、子分八五郎を従え、女目明しお品の美声に合せて、山車の上で太鼓を叩いていたが、女房お静が南町奉行所与力笹野新三郎を伴って近づいてくるのに気付くと、そっと境内の木陰に二人を導いた。お祭りで表面はなやいでいるとはいえ、その頃米価はうなぎ上りに暴騰し江戸町民は苦しんでいた。何か事件の起りそうな不安があった。

 笹野は島破りの件と医者の水死を平次に知らせ、医者は宝井宗庵だと告げた。忽ち平次には思い当たることがあった。数年前不正なもうけを企む木材の密取引事件を扱い、その手先として松五郎と新吉を捕えたのは平次だった。彼はその当時、事件の背後に呉服問屋尾張伝右衛門、両替屋伊勢屋久助などの大商人があるのを知り、さらに追及の手を進めようとした時、何故か時の当番奉行根岸肥後守に捜査を差止められてしまったのだ。宗庵も一味の一人のはずであった。

 その頃、問題の伊勢屋、尾張屋は共に柳橋の料亭“舞坂”に向っていた。そこには上総屋喜兵衛、板倉屋おれんら、かって新吉、松五郎を犠牲に大もうけをした悪の一味がすでに集っていた。彼らは島破りの報を聞き、自身が復讐されることを恐れてかく会合したのだった。席には根岸肥後守と親しい武士松島外記の姿も見えた。ところが会合の帰りまたも事件が起った。伊勢屋が背中の蜘蛛の刺青を一突きされて殺され、同行の尾張屋も傷を負ったのである。死んだ伊勢屋の懐には、東海道五十三次「舞坂の宿」の浮世絵に緑色の馬を大きく描いたのが秘められていた。その直後、かっての新吉の恋人で島送りの後、伊勢屋にしつこく追い廻されていた芸者の染吉が新吉の身を気づかい、平次の家を訪れて、事件直前脱走中の新吉が彼女に会いにやってきたことを打明け恋人が殺人犯ではないかと恐しい疑惑を語るのだったが、平次の表情は動かない。

 事件の複雑さを知るや、直ちに平次は笹野に伴われて南町奉行小田切土佐守を訪ねた。明晩子の刻までに奉行月番が再び根岸肥後守に移る。根岸が一度差止めた事件に手をつける上は、どうしても明晩九ツの刻までに解決せねば平次の命も危い。だが平次はきっぱりと小田切の前に成功を誓った。

 その頃新次郎とお絹は寄り添いながら、神田祭の宵とあってどの旅館も満員で泊まるところがなく、困りはてて歩いていた。お絹は実は上総屋のひとり娘であったが、当主になった伯父喜兵衛をきらい仲よしの女中お千代と着物を交換して家出をしてきたのだった。新次郎もやくざの前歴があり背中に例の蜘蛛の刺青を持っている。二人の秘密は共に今度の事件と何か関係がありそうだ。だがその時二人の心に芽生えた思慕の情に偽りはなかった。互いに心中離れまいと誓っていたのだったが・・・。

 さすがの平次にも、この難事件を解決するのに二十四時間しかないという制約はきびしい。彼はまなじりを決し、すでに八方に飛んで活動を開始していた。ガラッ八も朝から何より好きな飯にありつけず、ブウブウ云いながらも、珍活動を見せていた。はたして事件は解決するのであろうか?刺青の謎は?浮世絵の謎は?(公開当時のパンフレットより)

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人肌蜘蛛

滝沢 一

 宿屋に連れ込んだ新妻が翌朝全く姿を消してしまうというアイデアはW・アイリッシュであるが、この発端部分がおもしろい。その後は事件の筋をこみいれさせすぎて、謎解きの興味はお留守になる。カラー映画であるから、東海道五十三次の版画を使って、その絵柄と色彩で一味の会合場所を推理するような試みもなされているが、この思いつきもそれ程効いているとは言えない。

 結局目まぐるしい場面の展開に伴うスピード感と、平次がいつ得意の投げ銭を用いるかというサスペンスで、何となくゴマ化されてしまったという感じである。その点森一生の演出は、シナリオで書き足らない部分を、ショットの変化で器用にさばいているといえよう。色彩がついているということはその点でもありがたいことで、画面が一転して華やかな神田祭の情景に変ると、しばらくあでやかな色彩で目さきをまどわされてしまう。棺のフタをあけると失踪した娘の青白い顔がちらりとのぞいてみえて一瞬のスリルにしても、プラス色彩の効用であろう。ともかくこれが娯楽作品としてかなりの厚味を持ったのは、一つには色彩の働きであった。 

興行価値:長谷川一夫十八番の銭形平次初の色彩映画。その持味を活して謎解きの鍵は色で解決するという新機軸。スピード感もあり、大衆向映画として絶対である。(キネマ旬報より)

 半七、右門に次ぐ捕物帖の三番手、野村胡堂の「銭形平次捕物控」(昭6〜32「オール読物」連載)は総計三百八十三話、捕物帖の歴史の中で最長・最大のシリーズとして多くの読者に親しまれている。「銭形平次捕物控」 野村胡堂 *光文社文庫で読める。

 大川橋蔵や北大路欣也主演のテレビドラマ「銭形平次」は、野村胡堂の小説「銭形平次捕物控」が原作。

 主人公の銭形平次こと岡っ引の平次は、神田明神下に住むという設定。というわけで神田明神(正式名は神田神社)境内に銭形平次の碑、八五郎の碑が建っています。

 

 

銭形平次が住んでいたのは神田明神下御台所町!

 1931(昭和6)年、「文藝春秋オール讀物號」(文藝春秋)創刊号に「岡本綺堂の半七捕物帳のようなもの」の執筆を依頼された野村胡堂は、銭形平次を主人公にした「金色の処女」(こんじきのおとめ)を発表、これが「銭形平次捕物控」の第1作目(「ガラっ八」こと八五郎もまだ登場しません)。以降、第二次大戦を挟んで1957(昭和32)年までの26年間、長編・短編あわせて383編を執筆しています。

 銭を投げるというアイデアは、「水滸伝」に登場する没羽箭張清が投石を得意にしていたことをヒントに、銭形平次の名は、たまたま建設現場で見かけたゼネコン「錢高組」の看板と社章からとか。

 嵐寛寿郎(寛プロ)、長谷川一夫(大映)などを主演に数多くの映画作品が制作されたほか、1966(昭和41)年5月4日から大川橋蔵主演でテレビドラマとして放送開始。
ドラマ史上最長の全888話という記録的なロングヒット作となり、ギネスブックで「テレビの1時間番組世界最長出演」として世界記録に認定。

 北大路欣也版は、1991-98(平成3-10)年の間、全7シリーズ、全88話が制作放映されています。主題歌「銭形平次」も舟木一夫が歌ってヒットしています(北大路欣也主演のものは北大路欣也が歌っています)。

 銭形平次の碑は、1970(昭和45)年12月、有志の作家と出版社とが発起人となって明神下を見下ろす場所に建立されたもの。ちなみに野村胡堂は神田明神にも近い、本郷区台町の下宿屋に住み、東京帝国大学に入学するという青春時代を過ごしています。(東京とりっぷより)

 

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◆捕物帳小史◆

半七から鬼平まで 時代に夢与え続ける

 捕物帳の始まりは、1917年1月に「文芸倶楽部」に発表された岡本綺堂の「半七捕物帳」第一話「お文の魂」である。旧幕臣を父に持ち、東京・芝高輪にうまれた綺堂は、江戸の面影をしのぼうという思いから「雨月物語」の伝統にコナン・ドイルの「シャーロック・ホームズ」の世界を移入して、捕物帳という形式を作り上げた。

 この「半七捕物帳」に刺激を受け、1931年から連載が始ったのが。野村胡堂の「銭形平次捕物控」。容易に罪人をつくらず、町人をひいきに、侍を徹底的にやっつける、明るく健康的な捕物帳だった。四百二十数話、戦後の1957年まで続き、吉田茂元首相までが愛読した最長の人気シリーズとなった。このほか佐々木味津三の「右門捕物帖」、城昌幸の「若さま侍捕物手帖」、横溝正史の「人形佐七捕物帳」などが生まれた。戦前の暗い世相の中で、捕物帳は大衆時代小説の一ジャンルとして、人々に楽しい夢を与えた。

 捕物帳の面白さは、江戸の世界にタイムスリップして、失われた面影や人情を懐かしむだけでなく、捕物帳のコンビに、名探偵ホームズとワトソンとの関係を連想できること。“親分、大変だ”のガラッ八の八五郎と冷静な平次、むっつり右門とおしゃべり伝六などの会話にユーモラスな批判精神を読み取ることができる。

 戦後の捕物帳は坂口安吾の「明治開化安吾捕物帳」などの異色作が出たが、本格的な作品が登場してきたのは60年代から。松本清張の「彩色江戸切絵図」、池波正太郎の「鬼平犯科帳」、平岩弓枝の「御宿かわせみ」など。「鬼平犯科帳」は、フランスのフィルムノワール(犯罪映画)をほうふつさせる斬新な感覚で、「御宿かわせみ」は、女主人るいと東吾との忍ぶ恋を軸にして、人気シリーズとなった。( 2/6/99 日本経済新聞より )

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