伊賀の水月

1958年11月15日(土)公開/1時間39分大映京都/カラーシネマスコープ

併映:「赤胴鈴之助・黒雲谷の雷人」(渡辺実/桃山太郎・林成年)

製作 酒井箴
企画 税田武生
監督 渡辺邦男
脚本 渡辺邦男
撮影 渡辺孝
美術 上里義三
照明 伊藤貞一
録音 大谷巌
音楽 山田栄一
助監督 西山正輝
スチール 小牧照
出演 長谷川一夫(荒木又右衛門)、林成年(若党武右衛門)、黒川弥太郎(柳生但馬守)、阿井美千子(おりゅう)、中村玉緒(みち)、近藤美恵子(みね)、島田竜三(池田忠雄)、鶴見丈二(渡辺数馬)、河津清三郎(安部四郎五郎)、田崎潤(河合又五郎)、千葉敏郎(星合段四郎)、小堀明男(近藤登之助)、杉山昌三九(旗本我孫子)、小川虎之助(渡辺靭負)、原聖四郎(柳生家家老笹川)、中村雁治郎(大久保彦左衛門)、荒木忍(荒尾豊後)、羅門光三郎(旗本一党)
惹句 『朝焼け雲を朱に染め、剣風冴える鍵屋の辻結ぶ刃は捨身の一撃、今ぞ晴らさん武門の意地』『敵は鈴鹿か伊賀越えか、暁の霜を踏んで三十六騎。迎え討つは豪剣二刀流荒木又右衛門』『小説に芝居に放送に、いまなお万人の血を湧かす日本三大仇討荒木又右衛門の三十六人斬り

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[作品解説]

 『忠臣蔵』『日蓮と蒙古大襲来』と相次ぐ大ヒットを大映にもたらした渡辺邦男監督と長谷川一夫の名コンビが、三度組んで、秋のシーズンに他社を圧倒せんものと製作されるものであります。

 『伊賀の水月』はもちろん大映スコープ・総天然色で、長谷川一夫の初役荒木又右衛門を中心に文字通りの豪華娯楽篇としてオールスタアの多彩な顔合せが行われます。

 荒木又右衛門の鍵屋の辻での敵討は、「曽我兄弟の富士の夜襲」、「忠臣蔵」と共に日本の三大敵討の一つとして講談に、浪曲に、歌舞伎に、映画に、日本人の国民感情に訴えるものとして、今なお、脈々として生き過去に於いても何十回と映画化されています。

 『日蓮と蒙古大襲来』で他社を圧倒し去った大映が、この『伊賀の水月』を荒木又右衛門映画の決定版とすべく、主演には長谷川一夫を迎え、演出には快調なテンポを誇る大衆娯楽映画製作のナンバーワン渡辺邦男監督が長い準備期間を経て製作に当ります。

 渡辺数馬には大映多摩川にあって現代劇で修練をつんでいた鶴見丈二が長谷川一夫の眼鏡にかなって時代劇に初出演しています。時代劇の新星として大きな期待がよせられます。

 主なるスタッフは、製作は酒井箴、企画は税田武生、脚本監督は渡辺邦男、撮影は渡辺孝、録音は大谷巌、編集は宮田味津三、美術は上里義三のベテランが顔を並べております。

 主なるキャストは、長谷川一夫が初役である荒木又右衛門に扮し、力強い立廻りを見せることになっており、これを助けて、市川雷蔵、黒川弥太郎、田崎潤、河津清三郎、小堀明男、中村鴈治郎、林成年、島田竜三の大映京都の総力をあげた豪華なもので、なお、渡辺数馬には、大映多摩川にあって現代劇で活躍している鶴見丈二が起用されています。女優陣は、近藤恵美子、阿井美千子、浦路洋子、中村玉緒の多彩な顔触れでこの作品の超豪華篇であることを物語っています。(公開当時のパンフレットより)

時代劇のお色気談義に花を咲かせる長谷川・雷蔵

 この『伊賀の水月』は、ご存知荒木又右衛門の颯爽たる剣豪ぶりを、あく迄も講談調の派手さを中心に描こうとするもので、話題の焦点は、長谷川一夫が荒木又右衛門をどのようにして、先人にひけをとらずに演じきるかにある。

 この作品で、『炎上』以来、とみに意欲的になった市川雷蔵が、『忠臣蔵』の浅野内匠頭、『命を賭ける男』の水野十郎左衛門、『日蓮と蒙古大襲来』の北条時宗と殿様をやらせては無類の風格を示すとの要望にこたえ、またまた、荒木の主君大和郡山の城主本多大内記に扮して出演している。弁天小僧との掛け持で多忙な雷蔵が、たまたま、本多大内記に早代りして、セットで荒木の長谷川と顔を合せ先輩後輩が、うちとけた雰囲気で歓談した。

長谷川 「雷蔵君の弁天小僧の女役を拝見したが、なかなか美しかった。女にも見られないお色気があったよ」
雷蔵 「大先輩にそうほめられては、穴の中へ入りたい位ですよ。ぼくのノド仏が人並はずれて高いので、それが気になっ
て仕方がありませんでした」
長谷川 「映画でのお色気というのは、なかなか出にくいもので、私らは、ちょっとした動作でそれを表現しようと努力したも
のです。例えば起居振舞に、こうすれば見た眼に美しく、自分の魅力が出せるのだとか、歩き方一つにしても、そ
の役柄をつかんだ、歩き方というのを研究したものですよ」
雷蔵 「どうも近頃の時代劇の女優さんは色気がなさすぎるとよくいわれるんですが、どうなんでしょうかネ」
長谷川 「それは、現在の女優さんは、どちらかといえば洋服を着ているほうが多いでしょう。どうしても動作が活発になりす
ぎて、こぼれるような色気というよりも、パッと開放的なんですよ。やはり時代劇をやる以上は、平常から着物に馴
れておいた方がなにかとよいと思うんです」
雷蔵 「映画でぼくは初めて女形をやったんですが、胸をきつくしめて、ごてごてと衣裳をきて、女の人の苦労がしみじみ身
 にしみました。ふだんから着物に馴れておかなくちゃ、お芝居どころではありませんネ。時代劇の女優である以上、
それ位の修練は絶対必要で、その修練を乗りこえて、始めてお芝居が出来、お色気も出るんでしょうネ」

(公開当時のパンフレットより)

[みどころ]

 短いカットでたたみかける威勢のよい渡辺演出がまず見もの。全体として非常にわかりやすい。又右衛門が、柳生但馬守や主君本多侯に“真剣白刃取り”の極意を伝授する場面は鋭い。

[物語]

 江戸に柳生流の看板をかかげて道場を構えた荒木又右衛門は、ある日浅草で旗本六方組に乱暴されている池田藩士渡辺靭負の娘みねを救った。荒木の武勇を眼のあたりにした六方組の首領阿部四郎五郎は、なんとかして彼を味方に引き入れ、組の看板にしようとしたが、荒木は応じない。当時、天下のお止め流として柳生流の看板をかかげることは固く禁じられいたが、又右衛門は看板をはずそうとはしなかった。ついに柳生家から呼び出しがくる。

 但馬守と対座した又右衛門は、看板をはずさなかった理由を述べて挑戦する。師柳生十兵衛の遺言により但馬守に奥義を授けるために機会を待っていたのであった。荒木の真意を知り、兄十兵衛の恩情に感激した但馬守は、荒木から新蔭流の極意を授けられるや、その返礼として大和郡山の本多大内記に推挙した。そして、荒木は、浅草の一件以来想いを寄せていたみねとも結ばれる。

 それから二年の歳月が流れ、又右衛門は、参勤交代する主君に従って江戸へ上ることになった。その頃、江戸では、想いを寄せていたみねに去られたあと酒色に溺れ、すさんだ日々を送っていた河合又五郎は、金に困り、遂には靭負を殺害、安部四郎五郎の屋敷へ逃げ込む。そのため池田藩と旗本が対立、自体を憂慮した幕府は、池田藩に国替えを命じ、又五郎を江戸から追放、さらに又五郎に加担した旗本にも蟄居を命じた。

 義弟数馬の助太刀を決意した又右衛門は、藩主に累の及ぶことを恐れ暇を願い出るが、大内記は柳生流の免許を渡すまでは許さぬと、はねつける。何を思ったのか又右衛門は、突然本多侯に斬りかかった。驚きながらも辛うじて激しい荒木の太刀を止めた本多侯に、これぞ真剣白刃取り、柳生流の極意ですと叫び、無礼を詫びる。本多侯は、荒木の真意を悟って数馬への助太刀を許した。

 こうして、又五郎を守るため屈強の浪人三十数名を募って九州へ落ちるのを追って、数馬、又右衛門の旅が始まる。ともすれば臆しがちな数馬を見ては、荒木は心にもない厳しい言葉で叱咤し、隙をみては打ち込み、鍛えあげていった。

 寛永十一年正月十八日朝まだき、伊賀鍵屋の辻に又五郎一行を迎え撃ち、首尾よく本懐をとげた。

[映画評]

 スキのない達者な展開で、渡辺監督は長距離レースのようなペースの巧妙な配分を見せている。市川雷蔵の殿様がなかなか立派である。エロキューションのよいことは当代の時代劇役者の中でも有数のもの。英雄荒木又右衛門のエピソードを総集的にまとめあげた楽しい大講談だ。(名古屋新聞 昭和33/11/18より)

 又右衛門を意志の人として描き通したので作品の印象がキッパリしていいし、なまなかな心理描写などでは出せぬ性格的な魅力もきいている。長谷川は堂々たるものだが市川雷蔵の本多侯が長谷川と対峙して位負けしないのは、当然ながらさすがである。(日刊スポーツ 昭和33/11/15より)

 脚本構成に新鮮味はないが、オーソドックスな演出方法で重厚味もあり、老練。ただし終幕の決闘場面は迫力に欠ける。

 又五郎をめぐる大名と旗本の確執や不穏な世相等については描写不足。また、長谷川という役者の持味にもよるのだろうが、夫婦愛や姉弟、主従の恩愛をうたう場面でベタベタ感じを出しすぎた大芝居が多く、ヤマ場を重ねて歯切れよく終幕へ盛り上げて講談の、カラッとした面白さは失われていた。(朝日新聞 昭和33/11/18より)

[セットから]

 『炎上』以来、とくに意欲的になった市川雷蔵が『忠臣蔵』の浅野内匠頭、『日蓮と蒙古大襲来』の北条時宗と、殿様をやらせては無類の風格をしめすとの要望に答え、『伊賀の水月』でも、荒木の主君本多大内記に扮して出演している。

 弁天小僧との掛け持ちで多忙な雷蔵が本多大内記に早変りして、“真剣白刃取り”のシーンを終え、セットの隅で、荒木の長谷川と語り合っていた。“雷蔵君の弁天小僧で女形を見せてもらったが、とても美しいね。女優さんにないお色気があるよ。映画のお色気とうのは難しくて僕なんかも歩き方ひとつから研究したものですよ”とほめられた雷蔵は、“大先輩にそうほめられては、穴の中に入りたい位ですよ。僕の喉仏は人並みなずれて高いので、それが気になって仕方がありませんでした。女形というのは胸をきつくしめ上げ、ごてごて衣装をつけ苦しくってお芝居どころではありませんね”とテレていた。

-明日の時代劇をめざして-

 ちょうど渡辺監督が『伊賀の水月』、伊藤大輔監督が『弁天小僧』を撮っていた。早撮りの渡辺、ジックリ派の伊藤と対照的な二人の“巨匠”が隣合せのステージで仕事をしているのは面白い。『伊賀の水月』の長谷川と、『弁天小僧』の雷蔵の二人に明日の時代劇について聞いてみた。

 長谷川「時代劇はやっぱり、スーパーマンが必要でっしゃろ。それと本当の人間性の結びついた好い脚本があったらと思います。長年時代劇ばかりしていたらすぐマンネリズムやといわれるが、カブキ狂言でも小学校の教科書でも毎年々ことや。時代劇かて毎年お客さんを楽しませてるんやもなあ」

 一方、『弁天小僧』で女形の姿、背中にいれずみを描かせていた市川雷蔵は、「じゃ瀬川さんは本当に頭のさがる大先輩だ。ただ長谷川さんは自分の長所だけを誇張して画面に出すという点でズバ抜けた専門家だが、私はもっと与えられた役に素直に誠実に入ってゆくといだけで演技の道はないものかと考えている」

 『炎上』の青年僧から『日蓮-』の北条時宗、さらに女装の弁天小僧まで、“何でもやる”という雷蔵の言葉には、今後の時代劇をになう若手として十分な意欲が感じられた。(読売新聞 昭和33/11/4より) 

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 曽我兄弟、忠臣蔵と並ぶ日本三大仇討、鍵屋の辻の決闘の立役者荒木又右衛門。芝居(「伊賀越乗掛合羽」「伊賀越道中双六」)講談のおかげで?三十六人斬ったスーパーマンにされるが、又右衛門が実際に斬ったのは、たったの二人だけ。

 史実の鍵屋の辻の決闘は、寛永七(1630)年七月二十一日、備前岡山藩士河合又五郎が、藩主池田忠雄の寵童渡辺源太夫の高慢さに腹を立て、これを斬殺、逐電したことに端を発する。又五郎は旗本安藤治右衛門のもとに逃げ込んだことから、幕閣をも巻き込んだ旗本−大名の対立にまで発展する。

 仇討ちとは元々、子が親の仇を、家来が主君の仇を討つ等をさし、尊属が卑属のために行うことは許されていない。従って、兄の渡辺数馬が弟源太夫の仇を討つのは仇討ちと呼ぶわけにはいかず、池田侯の遺命という形で仇討ちが認められ、数馬の義兄又右衛門の登場となる。映画で雷蔵は、又右衛門の仇討ちを温かく理解する名君役で主演の長谷川一夫を助けている。

 仇討ちものの第一人者の長谷川伸は、徹底した資料調査の上で「荒木又右衛門」(昭和11年)を書き、三十六人斬りの虚構を排し、又右衛門の行為が正しく仇討ちでない事を指摘した。これが荒木又右衛門の決定版であり、この作品の右に出るものはないが、又右衛門が伊賀上野の出身であることから、この仇討ちに忍者が絡んでいたとする作品まである。

 気軽に読める作品として、新潮社刊「時代小説の楽しみ」に直木三十五の「鍵屋の辻」新宮正春の「忍法鍵屋の辻」早乙女貢「伊賀のあらしこ」等の作品が収められている。(別冊太陽 時代小説のヒーロー100 縄田一男より)

鍵屋の辻の決闘

 寛永11年11月7日(1634年12月26日)に渡辺数馬と荒木又右衛門が数馬の弟の仇である河合又五郎を伊賀国上野の鍵屋の辻で討った事件。伊賀越の仇討ちとも言う。曾我兄弟の仇討ちと赤穂浪士の討ち入りに並ぶ日本三大仇討ちの一つ。

 寛永7(1630)年7月11日、岡山藩主池田忠雄が寵愛する小姓の渡辺源太夫にに藩士河合又五郎が横恋慕して関係を迫るが、拒絶されたため又五郎は逆上して源太夫を殺害してしまった。又五郎は脱藩して江戸へ逐電、旗本の安藤次右衛問正珍にかくまわれた。激怒した忠雄は幕府に又五郎の引渡しを要求するが、安藤次右衛門は旗本仲間と結集してこれを拒否し、外様大名と旗本の面子をかけた争いに発展してしまう。

 寛永9(1632)年、忠雄が疱瘡のため急死した。よほど無念だったのか、死に臨んで又五郎を討つよう遺言する。子の光仲が家督を継ぎ池田家は、因幡国鳥取へ国替えとなる。幕府は、喧嘩両成敗として事件の幕引きをねらい、旗本たちの謹慎と又五郎の江戸追放を決定する。しかし、源太夫の兄・渡辺数馬は仇討ちをせざるをえない立場に追い込まれた。戦国時代よりの仇討ちの習いとしては兄が弟の、父祖が子孫の、主君が配下の仇を討つことは異例なことであったが、主君忠雄の遺言による上意討ちの内意を含んでいた。数馬は国替えに従わず、仇討ちのために脱藩する。

 剣術が未熟な数馬は姉婿の郡山藩剣術指南役荒木又右衛門に助太刀を依頼する。数馬と又右衛門は又五郎の行方を捜し回り、寛永11(1634)年11月に又五郎が奈良の旧郡山藩士の屋敷に潜伏していることを突き止める。又五郎は危険を察し、再び江戸へ逃れようとする。数馬と又右衛門は又五郎が伊賀路を通り、江戸へ向かうことを知り、道中の鍵屋の辻で待ち伏せすることにした。又五郎一行は又五郎の叔父で元郡山藩剣術指南役河合甚左衛門、妹婿で槍の名人の桜井半兵衛などが護衛に付き、総勢11人に達した。待ち伏せ側は数馬と又右衛門それに門弟の岩本孫右衛門、河合武右衛門の4人。

 11月7日早朝、待ち伏せを知らず、鍵屋の辻を通行する又五郎一行に数馬、又右衛門らが切り込み、決闘が始まる。孫右衛門と武右衛門が馬上の桜井半兵衛と槍持ちに斬りつけ、半兵衛に槍が渡らないようにした。又右衛門は馬上の河合甚左衛門の足を斬り、落馬したところを切り伏せた。次いで、又右衛門は孫右衛門と武右衛門が相手をしていた桜井半兵衛を打ち倒す。このとき武右衛門が斬られて命を落としている。頼みとしていた河合甚左衛門、桜井半兵衛が討ち取られたことで、又五郎側の多くは戦意を喪失し、逃げ出してしまった。 逃げ遅れた又五郎は数馬、又右衛門らに取り囲まれた。又五郎を倒すのは数馬の役目で、この二人は剣術に慣れておらず、延々5時間も斬り合い、やっと数馬が又五郎に傷を負わせたところで、又右衛門がとどめを刺した。 俗に又右衛門の「36人斬り」と言われるが、実際に又右衛門が斬ったのは2人である。

 また、決闘地の領主である津藩藤堂家が又五郎一行の情報を提供したり、兵を密かに配置し、決闘が始まると周囲を封鎖し、又五郎の逃走を阻止するなど、数馬、又右衛門らを支援していたともいわれる。支援の理由はこの事件を外様大名と直参旗本との争いとみなしたためと見られる。

 見事本懐を遂げた数馬と又右衛門は世間の耳目を集めた。特に、実質仇討ちを主導した荒木又右衛門は賞賛を浴びた。数馬と又右衛門、孫右衛門は伊賀上野の藤堂家に4年間も預けられ、この間、又右衛門を鳥取藩が引き取るか、旧主の郡山藩が引き取るかで紛糾する。結局、3人は鳥取藩が引き取ることになった。

 寛永15(1638)年8月13日、3人は鳥取に到着するが、その17日後に鳥取藩は又右衛門の死去を公表した。又右衛門の死があまりに突然なため、毒殺説、生存隠匿説など様々な憶測がなされている。(Wikipediaより)

伊賀越復讐の石碑

三重県伊賀市小田町1338

 鍵屋の辻は、伊勢街道と奈良街道の分岐点にあたり、現在は「鍵屋の辻史跡公園」となっている。

 園内には荒木又右衛門の遺品や錦絵などを展示した伊賀越資料館や数馬茶屋などがある。

 

 

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