釈迦

1961年11月1日(水)公開/2時間36分大映京都/カラー70ミリ

監督 三隅研次
脚本 八尋不二
撮影 今井ひろし
美術 伊藤熹朔
照明 岡本健一
録音 大角正夫
音楽 伊福部昭
出演 本郷功次郎(シッダ太子)、チェリスト・ソリス(ヤショダラ)、勝新太郎(ダイバ・ダッタ)、京マチ子(村の女ヤサ)、川口浩(アジャセ王)、山本富士子(ウシャマ)、中村玉緒(オ−タミー)、川崎敬三(ウバリ)、叶順子(マータンガ)、近藤美恵子(アマン)、藤原礼子(母親)、三田登喜子(サリイ)、市田ひろみ(ナジャ)、阿井美千子(キリコ)、中村鴈治郎(アショカ王)、月丘夢路(タクシラー)、市川寿海(ビンビサーラ)
惹句 『日本映画の真価を問う愛と奇跡の大ロマン』『轟然と崩れ落ちる大神殿!真っ二つに裂ける大地スペクタクル場面が次々と展開する空前の迫力日本最初の70ミリ堂々の完成』『大映が全世界に放つ空前の超巨篇 奇蹟とロマン!世紀の大ドラマ』

『釈迦』の製作にあたって

 化学文化が絢爛と花ひらく現代は皮肉にも不安の世紀であり、混沌の時代でもある。人類の叡智は長足の進歩を遂げた反面、却って根元の最も大切なもの、即ち人類の幸福に欠くべからざる愛の心を失い、平和の精神を忘却した感がある。今こそ我々は、失いしものを求め、忘れしものを想い起すべきではないか?仏陀の国は仏陀を!キリストの国はキリストを!かくの如き意図に基き、東洋民族の生んだ最高不滅の聖者釈迦の慈悲寛容の大精神を再現し、悩み多き現代の人々に敢て、此の一編を捧ぐ。        

製作者 永 田 雅 一

 

昭和36年/1961年「配集トップ10」(配給収入:単位=万円)

1.赤穂浪士 東映 (43,500)

2.あいつと私 日活 (40,008)

3.用心棒 東宝 (35,100)

4.宮本武蔵 東映 (30,500)

5.幽霊島の掟 東映 (30,200)

6.波涛を越える渡り鳥 日活 (30,012)

7.堂々たる人生 日活 (28,977)

8.アラブの嵐 日活 (28,800)

9.世界大戦争 東宝 (28,490)

10.釈迦 大映 (27,500)

■解 説■

 仏教の祖・釈迦の生涯を描いた70ミリ超大作。クライマックスの撮影は自衛隊演習場に2万平方メートルもの大オープンセットを組んで行われた。28メートルの魔神像や、幅10メートルの道路などが、当時の金額で7000万円かけて実際に建造された。

 大映初の70ミリ映画で、『新源氏物語』の八尋不二が脚本を書き、『大菩薩峠』の三隅研次が監督したスペクタクル・ドラマ。撮影もコンビの今井ひろし。

 大映の永田雅一社長は、かねてから大作主義をとなえ、とくにこれからの日本映画は、世界をマーケットを対象としなければならないとも主張して来たが、これはその夢を実現させる第一作といえよう。もちろん、70ミリ映画が日本で作られるのはこれがはじめてであり、クランク・インにあたっては物語の背景となるインド各地に調査が行われるなど、大作の名にはじない入念な準備ののち、四月八日の釈迦降誕を記念して製作が開始されたものである。

 製作には永田社長がゼネラル・プロデューサーとして総指揮にあたり、脚本八尋不二、監督三隅研次、撮影今井ひろし、特殊技術横田達之、音楽伊福部昭、美術伊藤熹朔、監修中村岳陵、舞踊及び振付榊原帰逸と最高のスタッフが組まれている。

 また釈迦は、仏になってからは光や影によるわけだが、その若き王子時代シッダ太子には大映のホープ本郷功次郎が選ばれ、またその相手ヤショダラー妃にはフィリッピン女優のチェリスト・ソリスが迎えられ国際色をそえているほか、大映オール・スターに新劇のベテラン陣が多数加わっている。

 なにしろ製作費7億円というだけあって、スタジオにも一枚数千万円という敷物があらわれたり、とくに7千万円をかけたといわれる福知山のオープン・セットはハリウッド映画にまさるともおとらぬ豪華さで、単なる釈迦の伝記というのでなくロマンにみちた大スペクタクル映画として封切が待たれる。(キネマ旬報より)

 

 

 

 

 

 

 

 

「幕間」昭和36年7月号

 

 二月の新歌舞伎座以来舞台に接することができない寿海氏は、今大映70ミリ超大型映画『釈迦』に出演していられます。久し振りに・・・というより映画では初めて父子一緒に仕事をされる雷蔵さんは、嬉しそうにお父さんのことを何やかやお世話していられます。

 寿海さんも慣れない仕事ながら映画では先輩の息子さんがついていられるので、安心して雷蔵さんの言われるままにこれまた嬉しそうに仕事をしていられます。

 

製作準備=撮影を開始するまで

○・・・『釈迦』の製作が正式に決定されたのは一九六〇年の九月二十四日だった。この日を期して、日本初の七〇ミリ映画を創造する活動は開始された。大映本社には直ちに永田社長を委員長とする“釈迦製作委員会”が特に設けられ、内容、技術両面から“釈迦”に関するありとあらゆる資料、参考書籍が製作委員会によせられてきた。

それらは全部で貨車五台分にも上る厖大なものであった。これらの中には国宝級の貴重な文献も少なくなかった。これらの資料と大映が独自に収集した資料をもとに、脚本家の八尋不二はシナリオの執筆に入り、今年の二月、東洋不滅の聖者釈迦の一代記を総配役六十八名、雄大な構想のもとに数々の奇蹟、ロマン、スペクタクルシーンをおりまぜて、七〇ミリ映画の第一作にふさわしいスケールと内容をもった脚本が完成された。

○・・・次いで三月一日には、三隅研次監督以下のスタッフ並びに、豪華そのものの総配役も決定−撮影開始への準備はいよいよ本格化した。三月七日、製作補の鈴木火召成、脚本家の八尋不二、監督の三隅研次、撮影の今井ひろし、美術担当の内藤昭の諸氏はインドにロケハンに渡り、約半月間の強行スケジュールの中で、インド各地の仏跡、史蹟をめぐり、六五〇〇コマに上るインド各地の風土をカメラに収めて帰国した。その間、京都撮影所内の『釈迦』スタッフルームでは、伊藤熹朔美術監督を中心とした美術関係者の手によって、セットデザイン、各出演俳優別の衣裳、装飾デザインが次々につくられていた。それらの仕事は想像を遥かにこえる大へんな労苦であった。何といってもこの物語は二千五百年前の古代インドが舞台である。釈迦に関する伝説は今日なお多く伝えられていても、当時の建造物、インド人の風習にいたるまでは二十世紀の現在には完全なものは残されてはいないのだ。しかし、彼等は日本初の七〇ミリ映画第一作をつくるにない手の一員としての情熱によって、この二千五百年前の物語を再現する基礎となる困難な仕事を見事に克服したのであった。このようにして、昨年九月より八ヶ月の間、『釈迦』の製作にたづさわるすべての人々の、それぞれの分野におけるたゆまぬ努力はつづけられ、製作の準備万端整い、今年四月八日、その歴史的撮影開始の日を迎えた。

=日本映画史上最高の華麗なセット=

○・・・シッダ太子とヤショダラー姫が結婚生活をおくるカピラ王宮のセットは、荘厳なる美しさと豊かな色彩に富んだ絢爛たるものだった。太子夫妻の食堂に敷かれるペルシャ絨毯は一枚が時価一千万もするという国宝級のものが十二枚。大阪に住む、ある古美術収集家が『釈迦』の撮影を聞き、その歴史的映画の一翼をになうことが出来たらという好意から特に貸し出してもらったもの。同じカピラ城内の花園のセットがまた圧観だった。東洋一の大映京都撮影所のA2ステージ一杯に花壇がつくらえたのだが、そこに咲く花は大半がインド植物の造花。一本一本が装置係の人々の手によって植えられたもの。数にして一万本、費用にして二百五十万かかった。また、ステージの中央には彫刻をほどこされた泉水がつくられ周囲には孔雀、キジ、白鳩、インコ等の鳥が飛びかうという瞠目に価する美しさ。こうして、本郷功次郎とチェリト・ソリスの、日本映画史上最高の華麗なラヴシーンが七〇ミリカメラに収められた。

○・・・シッダ太子とダイバ・ダッタがヤショダラー姫を争う武芸比べのシーンが行われたのは京都府郊外の長池の自衛隊演習地。広大な平地にスパーフ城の高さ十二メートルの二段構えの城壁のオープンセットが延々二百四十メートルにわたって築かれた。このため十日間にわたって延三百台のトラックが資材を連日運びこみ、撮影所の大道具係の人々の他京都近在から大工、左官がそれぞれ七十名づつ動員された。このセット費が五百万円。撮影場面では、シッダ太子が勇ましいところを見せるところだけに、本郷功次郎も炎天下をついて思う存分暴れまくったといわれている。エキストラも三千人が動員されて迫力あるシーンが連日展開された。

 


=七千万もかかった大オープン=

○・・・だが、何といってもこの映画のハイライトとなったのは「大神殿の工事場」のオープン・セットであった。『釈迦』における最大のスペクタクル・シーンはそのまま日本映画初まって以来の大規模な撮影となった。

高さ28メートルの大魔像(奈良の大仏より約13メートルも大きい)をはじめ、大小五棟の神殿、長さ60メートルの橋を含めた大オープンセットはその規模において、その建設費において文字通りに日本映画史上最大のシングルセットとなった。場所は日本全国の十指に余る候補地から、あらゆる面の検討を加えられた結果、福知山市郊外の長田野にきめられた。セットケ建設のため、先づ66平方メートルの山野の一角をブルドーザー十台が切りくずしにかかったが土地の人々の間では飛行場の建設か、ゴルフ場でも開設されるのではないかとの噂が流れたという。

このシーンは、この映画最大のスペクタクル場面というだけでなく、二千五百年前の古代インド文化の建設法を現代に再現することになる文化的意義も持ち、しかもそれらの建造物が、一瞬の大地震によって崩壊するという物語の設定から、そうした仕掛けもあらかじめほどこしておかねばならぬだけに、このセットの建設は美術関係者が最も腐心したところである。そのために、大映の美術関係者30名を加えた170名の専門家が四十日間、延7000人近い人たちがこの建設に従事した。中でもインドラの神像は、豪雨、落雷等の災害によって二度も壊れ三度目にやっと完成したという。しかし、これだけのセットを僅か一ヵ月半足らずの間につくり得たのは、かって『羅生門』『大仏開眼』等において見事なオープンセットを作りあげた大映美術陣のすぐれた技術と自信があってこそといえよ
う。

このシーンだけで編成された『釈迦』のスタッフは300名以上に及び、大映京都撮影所の大半が福知山に動員された。撮影は折から七月半ばの真夏の太陽光線の下で十日間にわたって展開された。工事場の土工となるエキストラは延15000人が動員されたが、35度をこえる直射日光をうけながらも誰一人として文句をいう者もなく、「これほどよく働いてくれた人たちは過去になかった」と三隅監督をして感激させるほどだった。

撮影はまず�数千の人間がムチと怒声においたてられながらインドラの魔像を中心に大神殿を建設するとい工事中のところ、�これが八分通り完成したところで崩壊するという地震のシーン、�廃墟と化した場面と三つの段階に分けて行われたが、中でも地震の場面は緊張が連続した、むしろ凄惨とさえいえる撮影だった。建物が崩壊する瞬間は撮り直しはきかず、危険もまた伴うだけに本番撮影はまさに決死的。二万平方メートルの地に配在されている千数百人の人々に対し、三隅監督が携帯マイクを片手に号令、五台のカメラが一斉にこのスペクタクルシーンを撮影する様は、ジョン・フォード監督が指揮してのハリウッド映画のスペクタクル場面の撮影もかくやと思われるほどの大がかりなもの。この福知山オープンセットの建設費、ロケ費は〆て七千万という巨費に達したというから、いかにこのシーンがスケールの大きいものかが判ろう。

○・・・『釈迦』に関する製作上の労苦は、ここにあげたもんはほんの数例にしか過ぎない。特撮班は、たった数秒の画面の為にも筆舌をこえる努力を積んだ。初めての70ミリの特撮は、すべてが何回かの実験を経て最良の画面を作る研究が繰り返された。鳥の羽ばたく一カットにも動物園に幾日間も通いつづけ生態の研究がなされた結果であることをお伝えしておこう。

○・・・『釈迦』はこのようにして完成した。日本映画の製作史上のあらゆる記録を破り、幾多の話題を提供しながら。これはまた一つの驚異であった。『釈迦』スタッフのどの人たちというより、プロデューサーから裏方のすべての人たちにいたるまで、この歴史的映画の製作にたずさわったという栄誉心と自覚とに基いて、その全情熱を傾けた結果であったといえる。

釈迦の演出から−三隅研次監督素描 −

 逞しく日焼けした顔に柔和な瞳が笑っている。女性的ともいえるやさしい声でウィットに富んだ会話をかわす。平素の三隅監督はイギリス紳士にみえるようなやわらかい雰囲気につつまれている。だが「釈迦」のセットでは別人のような三隅監督だった。ジキルとハイドほどの違いがあった。柔和に開いた瞳は厳しくひきしまり、額にけわしいシワをはく。声までが重々しく迫って来る感じだ。それは、いささかの妥協も許さない。“七〇ミリの鬼”の姿であった。市川寿海、中村鴈治郎ら歌舞伎の名優、千田是也、滝沢修などの新劇のベテランを向うにまわしても、納得の行く演技が出るまで何度もダメを出す。

「ケッコウでした。もう一度どうぞ」

 おだやかな声で、何事もなかったような口調でいう。若い俳優たちには、これがたまらなく不気味だったらしい。いつもは兄貴のように打ちとけられるその人が、『釈迦』のセットではとてつもなく大きい存在なのだ。彼等がとまどうのも無理はなかった。

 助監督時代、主として衣笠貞之助監督、伊藤大輔監督に師事した。その頃からとび抜けた才気を謳われていた。そして『丹下左膳こけ猿の壺』で一本立ちになってからも、コンスタントな力量を発揮して、絶えず注目を浴びていた。野球に例えるなら、常時ベスト・テンに名を連ねる三割打者とでもいうか。だが、日本最初の七〇ミリ映画の監督には三冠王ほどの期待がかけられていた。荷が重かったに違いない。事実、『釈迦』の監督をひきうけるには非常な勇気が要ったという。

 相当な準備期間があった。日本映画には珍しい長い期間だった。インドへロケハンにも行った。ようやく構想に自信を持った。だが、いざ撮影が始まると、やはり手さぐりにならざるを得なかった。カメラ・ポジション、ラィティング、アクション・・・・ETC、すべての映画経験は七〇ミリというフレームの前に第一歩から出直しといっても過言ではなかった。色々な悪条件の中で、三隅監督の心は鬼になっていった。“映画の鬼”と呼ばれる永田社長も舌をまくほどの厳しさで『釈迦』と対決した。

 そして待ちに待った八月十三日。万霊たちかえるというこの日にふさわしく、場面は釈迦のネハン。早朝から異常な活気に満ちた撮影が続いた。一番手に本郷功次郎が上り、次の作品のため東京へ。三隅監督は本郷の労を厚くねぎらって、甘茶の代わりにシャンペンをかけてやる。シャンペンのアワを頭から浴びながら、本郷の目が心なしか光っていた。撮影は60度近い猛暑のセットで深夜まで続いた。十二時にあと数分、三隅監督がやや金属的な声で「カット」と叫ぶ。全シーンの撮影終了だ。まさに日本映画の歴史的瞬間であった。走り寄った市川雷蔵、山本富士子たちが、抱きかかえるようにして握手を求める。二、三歩あゆみ寄った三隅監督の足どりは雲をふむように心もとなかった。精魂を使い果してしまったのだ。

 暑天下での連日の撮影に、まっ黒になった肌が一度に十も年をとったようなシワをきざんでいる。スタッフや若い俳優さんが遠まきに囲んで三隅さんを見守っている。「ガンジーみたいな人だ」誰かがポツンとつぶやいた。二貫目もやせたというが、なるほど頬の肉がこけて、その風貌はガンジーを思わせた。(公開当時のプレスシートより)

 日本初の七十ミリ映画『釈迦』が四月八日撮影開始以来、四か月ぶりでクランクアップした。撮影されたプリントは英国に送り編集され、十一月一日東京、大阪で同時公開が決定している。はじめての七十ミリ映画の製作を経験した三隅研次監督に、この大仕事を終えた感想をきいてみた。

 ステージ横の大スクリーンに、釈迦の遺体をかこむ大群衆シーンが上映される。ステージの上で上田仁指揮の東京交響楽団フル・メンバー百二十人の演奏が、伊福部昭作曲の七十ミリ映画『釈迦』の終楽章を演奏する。やがてスクリーンのなかの釈迦の遺体が、白いハス状のベールにつつまれて昇天していくシーン。タクトは客席に向けられ、その前に席をしめた百人のコーラス団が演奏に加わる。

 これは東京の厚生年金会館大ホールで行なわれた。おそらく日本映画はじまって、もっとも大規模な『釈迦』ダビング風景。すでに全撮影は完了したが、「終わったという実感を、いつになったらもてるのでしょう」と、三隅研次監督はホールのせまい調整室で、演奏音に耳をかたむけながら、つぶやくのだ。

 このダビングのため、京都撮影所から上京したスタッフは二十人。「すぐれた演奏だけに、音質が違いますね。幅はあるし、やはり立体音はこうでなければ」とダビングロケをやっただけのプラスはあったという三隅監督だ。

 「撮影は終わり、編集もあらかたすみ、これでダビングも終わったわけですが、スタッフにおつかれさんという気分になれない。ネガを英国のテクニラマ社に送り、その仕上げを見るまでは・・・」という。だが、それなりの回想談を求めれば

 「心配していたほど困難な事情はなかった、といえます。特殊撮影の処理はありましたが、トリック映画ではないのですから、不十分なところは劇部分に変えたりしました。生まれたばかりの釈迦が、数歩あるくといったところ、不自然な話しをムードで必然的に見せる苦心。これが冒頭の引っぱり込むシーンですから、こどもだましの印象をあたえたらおしまい。小柄なこどもをロングでとり、同時にまわりの花々が一瞬に開花をするというところを、作りものでなく、ほんとの開花時に二、三機もカメラをすえてキャッチしたり苦労しました。私なりに得た七十ミリ製作システムといえば、セット場面の間に広大なロケをいれて、スケールを相対的に大きく見せる。画面的に訴えたいところは、人物のサイズの切りかえを多用する。それに大画面で、むずかしいとされる空間処理も、その欠点を知っていれば、わざと適用することもできますね」とほっとした表情だった。

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■梗  概

 現代ををさかのぼること2500年余。インドの北方の国にあるカピラ城は、ある朝、金色の大光輪に包まれた。城内の枯木は一どきに爛漫と花ひらき、妙なる音楽がいづこからともなく流れはじめた。こうした奇瑞のなかで、スッドーダナ王の妃マーヤーは、俄かに陣痛に襲われてシッダ太子を生み落した。生れたばかりの童子は、黄金の光を背に負いながら数歩あゆみ、左右の手で天と地を指さし「天上天下唯我独尊」と叫んだ。同じ頃、霊鷲山の頂上ではアシュダ仙人が「今こそ救い主はこの世に生まれ給う
たぞ!」と、烈風の中で予言を行っていた。

 二十年の後、美貌のほまれ高いスパーフ城の王女ヤショダラー姫の婿となるべき男を選ぶ武芸大会が開かれた。各国王子の中で最後まで残ったのは、シッダ太子とその従兄ダイバ・ダッタの二人であった。競うこと半日、ついに雌雄は決して、ヤショダラー姫はシッダ太子の妃となることになった。カピラ城内で太子夫妻の幸福な、そして円満な結婚生活が六年の間おくられた。しかし、その頃から次第にシッダ太子の心ふかくに人生への懐疑の念が支配はじめた。

 太子は、自らの境遇が恵まれていればいるほど、奴隷や賤民の身の上とのあまりの違いに人生の苦悩をもったのだ。しかも、信仰のいしずえともなっているバラモン教が、尊い人命をいけにえとして神に捧げているのを見た時、太子の苦悩はもはや誰一人として解決し得ない大きな暗雲となって太子の胸をおおってしまった。

 ある星のまたたく夜、太子は遂に心の安らぎと人生の悟りを得るために、最愛の妻と城を後に、禅定の地を求めて出城した。太子の諸国の放浪が続いた。ある時は岩石ガイガイたる荒野を、ある時はヒマラヤ山麓の原始の林を、ある時は炎天下の茨の道を−かくて、ある川のほとりの大きな菩提樹の蔭に太子の苦行がはじめられた。

 一方、ヤショダラー妃へのよこしまな恋情を捨て切れないダイバは、太子の出家を知ってから、たびたび妃を訪れていたが、ある夜、策略を弄して妃を犯してしまった。直後、ヤショダラー妃は、太子への永遠の愛を誓いつつ自らの胸に短剣をつき立てて果てた。この悲報は苦行を続ける太子の許へもたらされたが、太子は城へ帰ろうとはしなかった。

 こうして菩提樹のもとにあらゆる誘惑を退けながら六年の間、苦行を続けたシッダ太子は一切の怒りと憎しみを忘れ、村の女ヤサ(実は帝釈天)の介添により遂に悟りを開いた。シッダ太子は仏陀として生まれ変わったのである。鹿野苑の仏陀のもとには、その尊き法の教えを乞う人たちが全国より集まり、多くの人が仏陀の弟子となった。

 華子城の王子クナラが、その妃ウシャナに手をひかれながら盲目の身をこの地に運んできたのも、仏陀の尊い法の道を聞くことによって心の安らぎを得たい一心からであった。華子城主アショカ王の第一夫人タクシラーは美しいクナラ王子を誘惑するが、王子に一蹴されたのを逆恨みして王にクナラ王子をざん訴、怒った王は王子をガンガー谷に送りこんだのだ。しかもタクシラーは腹心の部下に命じて王子の眼を焼鏝をもって潰させてしまったのである。仏陀のみ心は、アショカ王に真実を知らしめ、王子の眼を再び開かせたのだった。

 仏陀の高い噂を聞いたダイバ・ダッタは、その宿縁ともいうべき敵愾心を燃やした。彼は、シュダラ行者のもとで神通力をさずかるや、敢然として仏陀への挑戦を開始、バラモンの布教につとめだした。

 マダカ国のアジャセ王子が、その出生の秘密に苦悩し父王と不和であることを知ったダイバはうまく王子に取り入った。ダイバは王子の権力を悪用し、バラモンの大神殿を建造させるとともに、仏教徒に対する迫害と処刑をはかった。数千、数万に及ぶ奴隷たちが大神殿の苦役にかり出された。怠ける者はむち打たれ、暑さに倒れる者は引きすえられた。仏教徒たちは次々と荷馬車に入れられて処刑場へ運びこまれ、地面の上に敷いた板に鎖でつながれ、巨象の群に踏み殺されようとした。

 このダイバの余りな非人道的な仕打ちに次第に疑問を抱きはじめたアジャセ王子は鹿野苑へ仏陀を訪れた。王子は仏陀の説法を聞き、その崇高な教えに感化され、ダイバとの訣別を決意した。これを知ったダイバは、王子に国王ビンビサーラ殺しのぬれぎぬを着せ、自らマダカ国の王として君臨しようと計った。ダイバは大神殿の台座の上から国王としての宣言を怒号し、仏教徒をいけにえとして火中に投ぜんとした。が、この時、突然として大地は大きな地鳴りをともなって震動し、さしもの大神殿は凄まじい音響とともに次々と崩れ落ちていった。一瞬、ダイバは巨大な亀裂の中に真逆様に転落していった。仏陀の怒りが奇蹟をもたらしたのである。仏陀のあまりに偉大な力におそれおののいたダイバが、地底から最後の救いを求めると、仏陀の温い慈愛はその一命を救ってやるのであった。

 崇高なる教えをもって庶民に安らぎを与え、幾多の奇蹟によって人の世に倖せをさずけてきた仏陀にも、やがて入滅の日がやってきた。多くの人々が、さまざまな土地から仏陀涅槃の地に集まってきた。クナラ王子とウシャナ妃も、夜叉女のカリテイも、アジャセ王は王妃や家臣たちをひきつれてやってきた。沙羅双樹のもと、悲嘆に沈む弟子達に仏陀は諄々とさとした。
「私が涅槃に入っても、私の教えは人間の心の中に永遠に生きているのだ」と。ほどなく、諸人等しく仰ぎ見る中に、仏陀の姿はあまた天人に導かれて金色の光を放ちつつ静かに昇天していった。

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