戦後関西歌舞伎の盛衰

双寿時代の思い出

 そのころ(昭和26・7年)の関西では、千日前の歌舞伎座を中心に中座、京都南座のうちどこかで歌舞伎が幕を開けていた。筆者は当時大学受験にかこつけて度々大阪へ行き、劇場へ通ったものである。何しろ五十年=半世紀も昔のことであり、ただ、少青年期の興味本位のことゆえ記憶もあいまいだが、スケッチとして二、三。

 二十六年三月、表面は復興しているもののまだ所々に戦災の傷あとの残るミナミの繁華街だが、幸い戦火を免れた千日前歌舞伎座は「我當改め十三代片岡仁左衛門襲名披露」。腕時計とにらめっこしながら一幕見席へ。“ウ!でっかい!!”天井桟敷から見下ろす客席空間の広さ。戦後上京の折、東劇は知っているものの実に大きい、拾い初印象。

 東京から三代目時蔵も参加しての『太十』一幕を観て、翌々日改めて仁左襲名をゆっくり観る。両花道を使っての芝居前から口上へ新仁左を中心に子息三人、秀公(現我當)彦人(現秀太郎)孝夫(現仁左衛門)と戸燕(故我童、十四代仁左衛門)だけのすっきりした口上幕、孝夫チャンの可愛らしかったこと。仁左の披露狂言『新口村』の幕切れは盆と大セリを使って道具を下げ、一面の雪景色に転換、さすが大劇場と感嘆。翌四月は時蔵が歌右衛門襲名の東京歌舞伎座へ戻り、猿之助一座が参加の東西合同。昼夜観劇したが、猿・段父子の『二人三番叟』と双寿の『坂崎出羽守』が記憶に残っている。

 さて翌二十七年は三月から八月まで在阪、折あるごとに劇場通いをしたが、三月は『新薄雪』の半通しと、寿海・時蔵コンビの清元物『かさね』『直侍』。この「直侍・入谷寮」で新造が雷蔵と錦之助の二人、何ともキレイでした。このあと四月の菊五郎劇団の『弁天小僧』の通しのほかのあと、五・六月は又、時蔵参加で、寿・時コンビは『落人』『十六夜清心』『切られお富』『葛の葉』などが続いた。