最初におことわりしておきますが、私は、辰野先生ではないが、歌舞伎を「痴呆なるもの」とする説の一人であります。少なくとも、歌舞伎が出来るだけ「痴呆なるもの」であってほしいと望むものの一人であります。
先刻御存じのことながら、歌舞伎とは「かぶき」なる語源が証示しているとおり、異常なるもの、馬鹿げたもの、卑しいもの・・・結局、こうしたところに、その本質があるものだと、私は考えております。然も、この異常なるもの、馬鹿げたもの、卑しいもの、としての歌舞伎の伝統は、多少の変形こそあれ、現代においても、なお脈々として継承されているものだと考えております。否、それでこそ、私たちは未だに飽きもせず、歌舞伎を、こよなく「愛玩」し「愛弄」しているわけでもあります。
私が、いつも引く例証で恐縮ですが、例えば「千本の道行」における佐藤忠信の拵えです。源氏の勇将兵衛尉忠信といえば、吾妻鏡や国芳の武者絵でも知れるとおり、恐らく写真で行けば、毛むしゃらの大男が想像されることでしょう。ところが、歌舞伎の持つ「かぶき」的色彩感覚は、この仁王のような佐藤忠信に、芸者か町娘かなんどのような、緋縮緬の下襦袢を着せています。私は、いつも忠信が「源氏のつわもの」で、漆黒の源氏車から燃えるような緋縮緬の肩先を引き抜いて極った瞬間、そのあまりなる幻想の美しさに、ハッと全身の血管が一時に停止するような官能の麻痺状態を感じます。
源氏の勇将佐藤忠信に、緋縮緬の下襦袢を着せる思い切った異常さ、馬鹿々々しさ、卑俗さ、私は、これこそ歌舞伎の根元精神だと考えるものであります。歌舞伎はこの逞しい「かぶき」精神の一貫において、三百年の歴史を生き抜いて来ました。結局、歌舞伎とはこれです。そして、これだけのものなのです。これ以外の何ものでもありません。甚だ雑駁な議論で恐縮ですが、謂わば、これが私の歌舞伎に対する直感的持論なのであります。だから、最初に申し上げましたとおり、私としては、歌舞伎がヨリ「痴呆なるもの」である場合(そうした舞台的表現が採られた場合)ヨリ多くの拍手を、歌舞伎に送りたいのであります。
大変、前口上が長々しくなりましたが、いずれにしても、私は、こうした解釈と態度とを基にして、武智さんの第二回「若手歌舞伎」(五月十二日より十日間、大阪文楽座公演)を拝見しました。
さて、この感想の最初に今度の公演の総評的な結論を、先ず以って申し上げておきますと、第一の「妹背の道行」は大変珍しい演出で、私として非常にいい勉強をさせていただけた。それを何より感謝したい。次に、第三の「勧進帳」は大体これまでの演出と変わりなく、その点、むしろ少々ばかり呆ッ気なかったほどですが、それでも、従来の誤演を注意深く訂正されている箇所などあって、これも、一応は結構でした。が、ただ、第二の「平家女護島」のみは、世にいう「武智歌舞伎」の特色を十二分に発揮しているものとして、そこに、いい意味にも、悪い意味にも、いろんな演出上の問題を提起していると考えられますので、私は、さし当って、この「平家女護島」から、この劇評的感想の緒口をほぐして行きたいと存じます。
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