寿海、雷蔵父子顔合せについて

=産経新聞記者劇評=

 新歌舞伎座へいつかは出演を予想していた映画の市川雷蔵が、養父の寿海とともに登場した。三本立、昼夜二回の公演、しかも長時間を要するだけに、雷蔵も寿海も重労働で大変だろう。

 そのせいか山崎豊子原作、辻久一脚色・演出の「ぼんち」は低俗野卑は少ないが活力、肉迫するものがとぼしい。一つは新派のB級の男優、女優の出演の結果、急場の一座となったため、そうひどい不良品はないのに、チームワークに欠け、アンサンブルの妙がない。

 期待した雷蔵の喜久治も彼らしいしんしまりの性格はわかる。不快な映画俳優の古い実演気分がないのもわかるが、なんとなく迫るものがない。といって近ごろいい気になっていいだした大阪人のドショウボネとか、ドギツさがないのは助かる。雷蔵はそのひょうひょうとした人がらのごとく、永久にあくどくない一級品であらしめたい。

 また淡島のぽん太が芸者の間もB級だし、なんら特色がでない。そして新派の瀬戸英一の警防団長、安部陽子の妻、大阪流の様な老母の英などが目につく。この演出者の辻氏は新劇の造詣が深く、演劇の視野の広い人だが、これ以外に私は将来必ず大成する才能者とみている。

 さらに活発な新発足を期待する一方、雷蔵は舞台俳優としてもいい二枚目と今さらながら思わせられた。今の歌舞伎は、新派とも二枚目は海老蔵以外は背がちんちくりんなだけでも悲劇である。雷蔵や海老蔵がいいというより、他の二枚目役者が肉体的にもひどすぎるのだ。その理由のみでも、雷蔵にも将来舞台への新発足を持つ。

 踊りの「祭ばやし」は、雷蔵や女優中心の定式物にすぎない。川口松太郎作「浮名の渡り鳥」は、雷蔵の役者蝶次が人を殺してやくざとなるが、師匠の寿海の蝶十郎が、それを不快に思ってはいるものの、蝶次の舞台は認めていて、結局不和の二人が、舞台で命がけの勝負をするというのが主題の芝居だ。

 ここでも瀬戸英一の蝶十郎の妹お栄がうまい。例の言語明快で、筋をわからせるのが老熟だ。とはいえ、これは単なるやくざ気分の大衆物だが、これに前記の二人が勝負といって演じる劇中劇の「鈴ケ森」が意外にいい。

 特に寿海の長兵衛は堂々としたおしだし、声量のあるせりふ、間のよさは、現在の多くの長兵衛役者をみごとにひきはなした。これでこそ芸術院会員の仕事だ。これは東京へ輸出させたい。彼は先代左団次の長兵衛に、権八をしていたが、左団次の長兵衛はよさそうでよくないものだった。それだけにこの長兵衛は彼の晩年をかざろう。

 雷蔵の権八は難はないが、着付の紫はもうひと息で、ヒワ色にさせてみたかった。ただし、この現今最上の長兵衛があるからといって、場代の税こみ約千円は高い、との声がある。世論の一つとしてとりついでおく。

鶸色(ひわいろ)とは、マヒワ(真鶸)の体色を模した明るい黄がちの黄緑色のこと。