薫の君の胸には浮舟の面影が焼きついて消えなかった。失われた宝石が戻って来たように、薫の君はもう二度と手放す気にはならなかった。
浮舟にとって、京は初めて見る都だった。洛東白川から知恩院へ、或いはまた平安京へ、朱雀門へ、薫と共に京見物の日が続いた。朱雀門の池には鯉が泳ぎ、おしどりが浮んでいた。浮舟は掌の椎の実を鯉に投げていた。
「でも姉君は薫の君様がお好きだったのでしょう」
「嫌われてはいなかったと思う」
「それなのにどうして・・・」
一緒にならなかったのかと浮舟は言いたかったのだ。薫の君はいわゆる殿上人だった。光源氏の子であり、大納言という要職にあった。殿上人は多くの女を愛するもの、という定説があり、大君はそういう世界を嫌っていた。
「私は大君だけを愛してゆくつもりだった。その誓いを立てたが、どうしても信じて貰えなかった」
「私も殿上の方は嫌いです」
浮舟はいたずらっぽく叫んだ。
「では私もか」
薫の君はいきなり浮舟を抱いた。
「そなたは大君が私に授けてくれた身替りだ。私はあの方に見て貰えなかったこの私の真心を、そなたに見せたいと思う。見てくれるな」
浮舟はみもだえした。いきなり踵を返して走り出す浮舟を、薫の君は追うのだった。
数日後−清冷院では歌の会が行われた。賑やかな楽の音を遠くに聞きながら、匂の宮は萩の咲き乱れる間を微醺をおびて歩いていた。
「君をはじめて見る折は、千代にもへぬべし姫小松・・・」
今様を口ずさみながら、宮はふと若い女の花摘む姿を認めた。それは浮舟だった。
「誰ぞに伴われて参ったのか」
「薫の君さまの御案内で・・・」
乙女の本能で浮舟は身の危険を感じていた。
「そうか、よいところで逢った。これからさきはわしが案内してやる。来い」
手をとられた浮舟は「あ、おはなし・・・」と叫んだ。無理に拉致されようとした浮舟は、匂の宮を突き放した。宮は浮舟の小袿を掴んだまま草むらに尻餅をついた。必死に逃げる浮舟は途中で逢った薫の君に思わず取りすがった。薫の君は事情を察した。黙って浮舟の駈けて来た道を戻った。
「おお、薫か」
宮は微笑した。しかし薫の君は冷静に言った。
「その小袿をこちらへ貰いましょう。浮舟へのおたわむれは以後おやめいただきます」
「ほう、そちがわしに指図をするのか」
美しい女の花園に踏み込んで、花を摘まぬ愚かな男になりたくないという匂の宮は、生真面目な薫の君が哀れな男に思えた。浮舟をはさんで、二人の男にはめらめらと目に見えぬ青白い炎が燃え上がってゆくのだった。
その日を境に薫の君と浮舟の心はぴたりとふれ合った。薫の君にとって浮舟はもはや大君の身替りではなくなった。浮舟を浮舟として愛するようになっていたのだ。
薫の君の姿が宇治八の宮の山荘に現われることが多くなった。しかし、薫の君は浮舟の山荘に泊るようなことはなかった。式を挙げるまでは、と言って何時も夜道を帰るのだった。殿上人には珍らしく、清いお心の持主だというのが一致した評だった。
ところが薫の君に一つの難関が待ち受けていた。帝の第二皇女、二の宮は、ひそかに薫の君を慕っていた。それを知った帝が皇女を薫の君に下されようというのだった。
おまけに東宮(皇太子)ご病気の間、暫く禁中に宿直せよとの仰せで、薫の君は恋しい浮舟の許へ通うことも出来なくなったのである。薫の君の苦悩は深まるばかりだった。
こんな一大事が起っていようとは知らぬ浮舟は、今日は見えるか、明日は恋しい薫の君が見えるかと思っているのに一向姿を現わさない。自棄気味に琴を弾じて糸を切ったりするばかり、母の中将も憐れに思って、
「お忙しくて、お心にかけながら、おいでになるお暇がないのだろう。明日にでも一度二条院をお訪ねして、様子を伺ってみよう」
となぐさめるのだった。
その時、宇治橋の方向に大勢の人声がするのだった。それに交じって車輪の響、馬の蹄の音、牛の鳴声などが湧き上り、次第に接近して来るのだった。
浮舟は訝りながら、心は期待にはずむのだった。庭伝いに来た弁の尼が浮舟に言うのだった。
「帝が初瀬寺へ御幸あそばすそうで・・・里の者の噂では、東宮様のご病気ご平癒をご祈願遊ばしての初瀬詣でとか・・・」
「それでは薫の君さまも・・・」
急に張りのある声で、浮舟は思わず、母様ッと叫び、奥へ駈け込んだ。
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