「立寄るとも寄らぬとも、何のおことずけもないお方のために仕度などして・・・」
浮舟はすねているのだった。
「もうお寄りにはなりません。浮舟のことは、とうの昔に忘れてお仕舞になされたのです」
だが、その時、牛の鳴声が聞えた。
「それ、矢張りおいでなされた」
母の声に、浮舟は思わず立上がった。
「さ、お迎え申して・・・」
中将の声に、浮舟は再び坐り込んでしまうのだった。
中将や弁の尼が迎えに出た。牛車から降り立ったのは匂の宮だった。
「突然に立寄って迷惑であろうが、暫く休息させてくれ、今日は初瀬観音で御幸があってな、帰りがけに不意にわしへ恵心院へ代参せよとの仰せで、一人はなれて詣でることになったが・・・」
車に揺られ通しで疲れたから休ませてくれというのが匂の宮の理由だった。浮舟はがっかりした。
「病気で臥せていると申し上げて下さい。あのような方は嫌いです」
大きな声で浮舟は叫んだ。
「もう、誰にも逢いたくない。浮舟は一人で宇治川へ身を投げて死にます」
浮舟は泣いて打ち伏した。中将になだめすかされ、浮舟はやっと挨拶に出た。匂の宮は惚々とみつめた。
「どうやら、様子も都の風になって来たではないか。浮舟、歌を一つ贈ろうか」
浮舟はおし黙ったままだった。中将が代って答えるのだった。
「はい、有難く頂戴いたします」
宮はさらさらと書き流した。
-眺めやる
そなたの雲も見えぬまで
空さえ暮れる 頃の侘しさ-
中将は歌の意を汲んでハッとした。歎いて眺めやる、そちらの方の雲も見えないまでに、空まで暗くなっているこの頃の侘しさよ。歎きの涙で、目さえ見えない心を・・・この暗さは五月雨のせいであろうか・・・
狼狽した中将は短冊を浮舟に渡した。浮舟はじっと短冊をみつめていた。この恋歌は匂の宮のおとくいの歌なのである。宮はこの歌と同じ歌を他の女にも与えていた。右近少納言の妻、早蕨がその女なのだ。
右近の邸では、早蕨が鉄漿つけをしていた。鏡台の引出しの底にこの短冊を発見した右近はむらむらと嫉妬が湧いて来た。
「早蕨!まだ宮の歌を残しているのかッ。これは何時貰った」
早蕨は狼狽した。しかし弱身を見せまいとして冷静に答えた。
「初めて頂いたお歌です。もう、済んだことではありませんか。何時までも男らしくない」
「なんだと」
右近は血相を変えてその短冊を破り捨てた。
「それほど腹が立つなら、あなたも宮さまほどのお方になるといいのです。宮を斬るの、裏切った女を殺すのと口先ばかりで・・・」
右近は唇を戦かせた。彼は妻に言われる迄もなく、一度は宮を斬ろうと思ったのだ。それは失敗に終っていた。清冷院の歌会の折、宮を斬ろうと思ったが、薫の君に腕をとられた。薫大将は事情を察し、不問に附してくれた。宮は犯人が誰か、いまだに知らぬ。その時の情景が右近を逆上させた。太刀が鞘走った。抑えつけられながら早蕨は叫んでいた。
「あなたも宮様のように、一度で女の心を掴み取るようにして下さればいいのです。宮様・・・匂の宮様」
断末魔の早蕨を右近はじっとみつめていた。ばったりと太刀が手から抜け落ちた。
大君の墓に詣で、それから久しぶり浮舟を訪ねようと思っていた薫の君の館に右近が馳け込んで来た。
「大納言どの、右近は決して乱心も狂気も致してはおりません。あなた様なら私のこの心中、お判りいただけようと、推参いたしました。早蕨は・・・」
「右近、語るには及ばん、男の恥と言ったではないか」
薫大将は知っていた。右近がこれから匂の宮を斬ろうと思いつめていることを。
「匂の宮を斬って恨みをはらそうというのか。それはならぬ。そなたの心中はよく判る。無理とは思わぬ。だが、人を斬ってどうなる。それで恨みがはれようか。愚かなことだ。右近、話そう、上れ」
薫の君はそう言って部屋に入った。その暇に右近は喉を掻き切っていた。
「右近、早蕨と二人だけのところへ行って、存分に可愛がってやれ」
悲痛の面持ちで、薫の君は呼びかけるように呟いて、手にした経文をはらりと顔にかけてやるのだった。
多情多恨の匂の宮は二人の人間を殺してしまった。暗い予感が薫の君にはあった。しかし、薫の君は定められた道を歩くより仕方がなかった。光源氏の嫡子として薫の君は生れたが、実際は不義の子だった。その身を恥じて、母は尼になった。薫の君は己れだけは身を清く持そうと心に誓ったのだ。
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