浮舟は薫の君を待ち侘びて暗い日々を送っていた。その日も浮舟は大君の墓に詣でたが、母、中将を離れ、侍従と共に草を摘み、或いは栗を拾って気をまぎらわせていた。浮舟は常陸国での生活を思い出していた。小さな流れを見つけた姫は裾を上げて足の先を水にひたした。
「今日は暮れ方までここにいような」
浮舟の言葉に侍従は当惑顔である。
「早く参りませんと、母君が御心配をなさいます」
その頃森蔭の径を匂の宮が供の者を連れて通りかかった。馬上の宮はふと草の上に置かれた被衣を見つけた。供の者は馬から下りてそれを取上げた。
「香などたき込めて、山里のものとも覚えませぬが・・・」
そして、ふと小川のほとりの姫と侍従が眼に入った。匂の宮は浮舟に近づいて行った。
「逢えてよかった。今日は遥々とそなたに逢いに来たのだ。歌の返事を貰おうと思ってな」
浮舟は当惑して侍従の顔を見た。宮は続けて供の者に言った。
「わしは浮舟と話をするが、そちはその女を連れていずれへでも行って来い」
供の時方は乱暴に侍従を連れ去った。
「侍従」と呼ぶ浮舟を宮はしっかりと抱きかかえた。
「何も心配はいらん。あちらはあちら、こちらはこちらだ」
「お許し下さい。ああ・・・」
と叫ぶ浮舟の耳に熱風のような宮の囁きが吹き込まれるのだった。
「浮舟、わしはそなたが好きだ。今日この頃、わしはそなたの夢ばかり見ているのだぞ、二条院の館で初めて逢ったあの時から、わしの眼にはそなたのあでやかな顔が焼きついているのだ。浮舟、わしは、何ものにも替えて、そなたを愛したい。片時もはなさずにそなたをこうして抱いていたいのだ。そなたの望むことなら、どのようなことでもしてやろう。そなたの為なら、わしはこの生命も惜しいとは思わぬ。判ったか。わしのこの真心を受けてくれるな」
深く抱き込む宮の腕の中で浮舟は烈しく身もだえた。
「私はもう薫の君さまと、末のお誓いをいたしました」
「なに・・・」宮は愕然として叫んだ。
「では薫に体を許したのか」
「心と心の・・・」浮舟はあどけなく答えた。
「心と心か、可哀そうに。そなたはまだ何も知らんな。最早薫はそなたのことなど忘れている」
帝からニの宮を遣わされることになり、薫は今姫と懇ろになっていると聞かされ浮舟は次第に蒼白になった。
「心と心のつながりなどと、他愛もないことを、浮舟、わしの約束を見せてやる」
いきなり浮舟の肩を抱いて、その頸へ口づけした。
「ああ、ああ・・・」
烈しく身もだえした浮舟は口づけされた頸のあたりを抑え、駈けだした。
山荘に戻った浮舟の乱れた髪を撫でつけていた中将はふと頸筋の斑点を発見した。
「まあ、このようなものを・・・誰にいたずらされたのです」
「匂の宮さまが・・・」
「宮さまもお心の多い・・・帝の位にでもおつきになろうというお方が、お戯れにもせよ、お前のようなものに、そんなことをなさるとは、本当にお気軽な・・・」そして中将は声低く続けた。
「宮さまのことは誰にも言うのではありませんぞ。薫の君さまがお見えなさっているのです」
浮舟は悔しくてならなかった。大嫌いな匂の宮にいたずらされ、薫の君にはニの宮さまがついていらっしゃる・・・浮舟は静に挨拶に出た。
「怒っているのか。足遠く過して申し訳ない。謝る」
薫の君の言葉は素直だった。
「薫の君さまは、もう私をお忘れ遊ばしたのでございましょう。この頃はニの宮さまとお懇ろに遊ばしておいでなさるので・・・」
恨みをこめた浮舟の声だった。
「私には浮舟がいる。私はどのようなことがあろうと、そなたの外に心は移さぬ。帝がお許しなくば、官位も捨てるぞ」
浮舟は涙ぐんだ。たった一人の女のために官位も捨てるという薫の君の言葉。それを疑ったりした女心のあさはかさ・・・
「薫の君さま、私を邸へお伴い下さい。浮舟はもうあなた様と離れているのが怖ろしうございます」
匂の宮によって呼び覚まされた女の官能が、浮舟には恐ろしいものに思われたのだ。身も心もはっきりと薫の君に縛りつけて貰わねば安心ならなかった。薫の君の官能も燃え上った。几帳を引き寄せ、燭の灯を吹き消した。しかしまた薫の君はがっくりと膝を崩した。
「浮舟、我慢してくれ、そなたの思いはよく判る。私も同じ思いだ。だが、私には心に立てた誓いがある。晴れて二人が結ばれるまでせめて私とそなたの仲は清くありたい」
体のつながりは心の固いつながりの前には蛍火のようにもろくはかない、と薫の君は言うのだった。
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