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元禄時代に取材して 東京 虹扇 好色好色と謳いにうたってようやく訪れた元禄時代、さてこれから=世之介について=と題して、一時間半の取材と云うわけ。 武士の貧困等ぎりぎりの人間性が主流となっているこの御世に、ひょっこり現れた金の世之介、色道の世之介は単なる放蕩ではなく、レジスタンスの発散と我が道を求める夢想家と云えましょうか。前からの企画と丹念な心遣いが、スタッフの細かい神経を通じて目に見える様、ではこの辺りで女神達にいろいろと伺ってみることに致しましょう。 「なかなかバラエティーに富んだ女神像を写し出しているのに、それほど面白味が無いのですが!!」 「シナリオのせいでしょうかしら!」とは彼女の云いぶんです。 「でもラブシーンは厭味なく、なかなかあざやかに処理されて居りました」 「それは増村精神と雷さんの品の良さ。いわば淡泊さ(失礼!)が逆に爽やかな水彩画を描いたのでしょう。又、剽軽な甘さで笑わせる中に、世之介のフェミニストを浮彫りにするのが狙いなのです」と一寸ばかり誇らしげな顔。 然し、世之介の行状を視察すると、ちょっぴりフェミニストに頼り過ぎの感も無いでは有りません。ともあれここを訪れた取材者は、数々の収穫を得ました。風俗、世相の描写は、歴史に疎い現代人にも時代の一端をのぞかせてもらえます。又、斬新なスタッフの噛み合せは、マンネリに成りがちな時代劇の新しい実験で、こうした中に雷さんのリアルな演技の計算が加味されて、一見申し分ないと云うのにまだ何かを求めたいものです。それは孤立的にはどれも優れている各分野が、なぜ一体となるとその効果が現れないかと云う不思議な現象で、この疑問が解けないうちは、当分元禄時代を往復しなければならないでしょう。では一先ず、この辺で。 一日記者として。
好色一代男 大坂 はづきグループ 白坂、増村、雷さんのトリオから、どんな世之介が生れるのかと期待と不安の入り交じった気持でしたが、見終って骨のある、しっかりしたものであった事にまず安心致しました。雷さんのこの作に対する情熱と比例した熱演振りに、何より打たれます。所謂、体当りと云った演技をなさらない人ですが、今度だけは一生懸命に演って居られるのが気持良く感じられました。 スチールや宣伝によって、受ける感じが大変嫌らしいものを感じさせるのは、却ってマイナスであった様に思います。もう少し喜劇に徹して面白さを加味したら、興行的にも恵まれていたのではないでしょうか。『ぼんち』と同じ系統とはいえ、今まで余り試みられなかった時代劇の一つの型として、有意義なものと思います。 世之介自身の喜劇的なおかし味は、雷蔵さんの熱演によって大変良く出ていたと思います。お梶に云い寄って、夜忍んで行く場面で頬かむりして、懐手、そして出て来た時の表情など、ちょっとした所に良く表わされていると思うのです。 世之介の演技の中にオヤッと思う程、鴈治郎さんに似た所が感じられましたが、関西弁のセリフ故でしょうか。増村さん独特のセリフに大阪言葉のニュアンスが生かされて、面白く感じられましたが、地方の人々に解って頂けたでしょうか。 玉緒ちゃんとのラブシーンが一番ぴったりと、嫌味なく観られました。お町との恋愛は生命をかけた誠のものだった為に、何か引き込まれる様な力がありました。藁小屋でのシーンは特に印象的で、時代劇には珍しい新鮮さを感じさせます。お町の死体に驚いた世之介の悲しみ、嘆きが、実に飄々とした演技の中で、あまり深刻ぶらないでうまく表現されています。しかし、世之介のフェミニストとしての面目が、観客に納得が行く様に描き切れてなかった様に思われます。好色の面ばかりが浮き上がっている様に感じられ、見終った後に不快感が残りました。 批評家諸氏の様に鋭い観察力もなく、着眼点も浅くてお恥ずかしいのですが、映画を愛するのは限られた批評家だけでなく、多くの一般映画ファンなのですから、十人十色とは云え、我々が見て感激し、余韻の残る映画はやはり毎年のベスト・テンに入っている様です。 『ぼんち』『好色一代男』を卒業して、雷蔵さんの本当の持味を生かす良き作品を期待して、今後の彼を見守りたいと思います。 編集部:この映画評に初めて、グループとしての皆さんの御意見が発表されました。大変いい事と思います。今後、各グループで出ました映画評を、その場限りに終らせず、一つにまとめて御寄稿下さい。必ずや、雷蔵さんの参考になると存じます。 (05/31/61 発行)
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