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芹沢鴨(せりざわ かも 天保元〜文久3年
9・18)
「鴨」は正しくは「おう」か。下村継次、木村継次。光幹。常陸水戸出身。芹沢貞幹の三男。新選組局長。神道無念流免許皆伝。水戸天狗党の出身で、同志の新見錦・平山五郎・平間重助・野口健司とともに文久三年二月、幕府浪士組に参加する。八日、三番組小頭として出立するが、本庄宿での大篝火事件などを経て取締役附となり、二十三日に入洛。浪士組の黒幕清河八郎と袂を分かち、近藤勇らとともに京に残留する。三月十二日夜に会津藩お預かりが決定し、壬生浪士組を結成。近藤とともに局長となる。一説には近藤よりも上位の巨魁隊長と称していた。 背の高い恰幅のいい人物で、酒に酔っていないことはなかったという。豪胆で粗暴な性格が伝えられ、隊の活動資金調達のため、四月二日に平野屋から100両、六月に加嶋屋で30両、七月四日に鴻池で230両と大坂の富商から借金を重ねた。さらに六月三日の大坂力士との乱闘、同月、島原角屋への営業停止処分、八月十二日には大和屋の焼き討ちと、その乱暴な所業はとどまるところを知らない。それでも四月八日に、屯所としている八木源之丞宅で子女の葬儀があった時などは、近藤とともに帳場に座り、立派に受付を務めたという。 八月十八日の政変に出勤の際には、目前に突き出された槍の穂先を扇子であおぐという大胆不敵な態度が伝わる。しかし、その一ヵ月後の九月十八日夜、八木邸内で妾お梅と同衾中を襲われ、斬殺された。芹沢の狼藉に業を煮やした会津からの命令で、土方歳三、沖田総司らが手を下したという。同夜、八木邸にいた芹沢派の平山五郎も斬殺。平間重助は逃走。芹沢の死の数日前に新見錦は詰め腹を切らされており、野口健司は後日、切腹。ここに芹沢派は崩壊する。芹沢の享年は三十四歳、三十二歳、三十七歳とも。墓は京都市中京区梛ノ宮町の壬生寺。(今川美玖) |
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新見錦(にいみ にしき 天保7年〜文久3年
9)
「新見」は正しくは「しんみ」。常陸水戸出身。神道無念流免許皆伝。新選組局長、のち、副長。文久三年二月、芹沢鴨らと上洛、新選組結成に参加する。芹沢、近藤勇とともに局長となるが、のちに土方歳三、山南敬助と同格の副長へ格下げされた形跡がある。四月二日、大坂平野屋で借金した際の借用書には芹沢、近藤とともに署名しているが、それ以降はほとんど事蹟が残されていない。 九月某日、芹沢らが暗殺される数日前に、祇園の貸座敷山緒で近藤らによって詰め腹を切らされた。享年二十八歳。墓所は不明だが、京都壬生寺にある殉難隊士の墓に刻まれた田中伊織と同一人物と推定される。(今川美玖) |
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