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こうして船は三郎兵衛の指揮の下に一路南下した。しかし帰る予定の日が過ぎても、船は帰らず、晴信やおさきの焦慮のうちに日が過ぎた。 そうした一日。思いがけずも三郎兵衛が只一人漁船に乗って帰ってきた。しかも疲労のその極みに達し、まさに息絶えなんとする寸前であった。この三郎兵衛の報告を聞いた晴信は、愕然として思わず息を呑んだ。彼の持船は高砂まで行ったが、求める伽羅に思わしいものがなく、止むなく媽港(マカオ)まで来たが、停泊中のある夜、三郎兵衛らが上陸して見物中、酒に酔い痴れたポルトガル船の乗組員が、些細な事に云いがかりをつけた。三郎兵衛は大事に至ってはと、輩下を制しさらにポルトガル船側に丁重に詫びた。しかし衆を頼んだ彼らは、ついに刃物をかざして斬ってかかり、殆んど無抵抗に等しい三郎兵衛の輩下を、見るも無惨な殺傷を加えた。
大事な使命と、異国の空にある身と、三郎兵衛は隠忍自重、負傷者を船に運んだが、残忍飽くなき彼らは、船にまで大挙して押しかけ、船に火を放ち、乗組員の悉くを嬲り殺しにかけ、三郎兵衛も傷つき海中へ投げ込まれてしまった。
その上彼らは船に積んだ銀子、積荷の全てを略奪し去った。まことに鬼畜のごとき彼らの行動であった・・・ここまで報告するや、三郎兵衛は、地に突っ伏して号泣し、この上は死を以ってこの償いを・・・と、傍らに控える武士の刀を抜きとり、切腹しようとした。晴信は、わざと声を荒げて「そちが死んだとて、既往に戻りはせぬぞ!」叱咤し、その死を思い留まらせた。
この報は逸早く家康の許へもたらされた。家康は激怒し「晴信の奴、思い上りおって、何たる失態。この上はわが国の勢威の程を示すためにも、海の果てまでもかの船を追い、これを焼き払え!首尾よくし遂げし者には、朱印船の免許はもとより、恩賞思いのままじゃ。晴信の奴をきっと糾明致し、次第によっては領地没収じゃ!」 と寺沢広高、長谷川左兵衛の二人を、この詰問の正副使として、日野江城へ乗込ませた。彼の失脚を願う二人は得意満面、居丈高に晴信に対した。しかしその船の所在も知れず、ましてこれを撃沈すべき軍船を持たぬ晴信に、成算ある即答の出来よう筈はなかった。二人は半ば高圧的に、「身柄を隣藩大友家に移す。謹慎の上、追っての沙汰を待て!」と云い放って席を立った。
こうして晴信は皮肉にも許婚愛姫の実家である大友家へ即日お預けの身となった。
三郎兵衛は、事は総て自分の責任あると、再び死を決したが、別れ際の晴信の強い戒めの言葉を思い出しては、無念の唇を噛み家康の勘気のとける日を待つ外なかった。そうした折も折、媽港で晴信の船を焼き払ったポルトガル船「われらの恵みの聖母(ノッスリ セ ニョーラ ダ グラサ )」号が、年に一度の交易のため長崎の港に入って来たのである。媽港で三郎兵衛ら日本人をことごとく斬り殺したと思い込んでいる彼らは、何喰わぬ顔で交易を求めて来たのである。
三郎兵衛は切歯扼腕した。恨みを晴らすべき千載一遇のこの好機を迎えながら、その指揮を仰ぐべき主君晴信は、幽閉の身である。グラサ号長崎に来たる!と知り、時こそ至れりと、この襲撃を企図したのは、寺沢広高や左兵衛らであったことは云うまでもない。彼らはこれを成功さすことにより、完膚なき迄に晴信を失墜させ、家康の御意を得て、その褒賞として、御朱印船の免許を乞い、交易による莫大な利益を掌中に収めんとしたのである。しかしグラサ号は、その巨大さ、その武備、共に我国のそれとは比較にならず、尋常の手段では、近付くことすら不可能であった。
考えあぐんだ末、彼らは漁船十数隻に枯草を満載し、これに火をつけて、風上からグラサ号の方へ流し、焼打ちを企図した。しかし逸早くその企図は察知され、漁船のことどとくは、グラサ号から打出す大砲にによって撃沈されてしまい、指揮していた左兵衛の乗る船も砲撃をうけ、左兵衛は負傷して海中へ投げ出された。完全なる日本側の敗北である。しかもグラサ号は、続いての来襲を恐れ、碇を上げて港外へのがれた。
物見台から一部始終をみつめていた三郎兵衛は万事休す!と悲憤の涙をのんだ。だがグラサ号は、海上三里の沖合にかかるや、運転を誤って座礁した。グラサ号襲撃の時は今を置いてない!彼は物見台を下りるや、馬を飛ばして大友藩へ馳け込み、愛姫に会って事の仔細を告げ、主君晴信の出馬を乞うた。