オドロキ「忠臣蔵」
今の大映京都の前身であるところの日活撮影所で、最後に『丹下左膳』を撮って以来、二十二年振りで、今度大映がオールスターで製作する『忠臣蔵』に招かれて、この大映京都へ姿を現わした渡辺邦男監督にとって、最初の間はただただオドロキの連続でした。
まず驚いたのが、撮影開始第一日の予定が、「忠臣蔵」で重要な場面の一つになっている「松の廊下」の刃傷場面から入るということです。「ぼくなら何でも出来ると思っているのか知らないが、いくらぼくでもちょっと驚いたよ」といいながらも、テキに後を見せずOKしたのはさすがは渡辺天皇といいたいところです。次に驚いたのが、その「松の廊下」のセットたるや、四百坪のステージ一杯に組み立てた超豪華版同監督の言を借りれば「まるで貧乏長屋から急に御殿へ来たみたいだ」ということで、もっと小さいセットを想像して作って来た撮影プランはすっかりご破算になってしまったとうことです。
しかし、そこは非凡の頭脳を持つ渡辺監督のことですから、忽ちコンテを作り出して、その第一日の松の廊下のシーンを午後三時前に撮り上げてしまって、撮影所側をアッといわせましたが、ここでまた渡辺監督の驚いたことは、昔なじみのベテラン滝沢修の吉良上野介の老巧さもさることながら、初対面の市川雷蔵の浅野内匠頭が初日でもあり、むつかしい芝居場でもあり、相当長いゼリフもあるというのに、渡辺監督独特の中抜きを連発した早撮り手法に対して、一歩もたじろがず堂々たる演技に終始した事でした。
そこで、次の日、監督はセットに現れた雷蔵に「昨日はよくも覚えて来ましたね」と感歎の意を表明すると、雷蔵はニッコリ笑って頂度傍らにいた多門伝八郎に扮して出演中の黒川弥太郎を指して「ハイ、ちゃんとこういう先輩がおりますから」という返事でした。成程黒川弥太郎氏なら、東宝時代からのコンビで渡辺監督の手法を充分知っているわけですから、この人から監督のコツを聞いておれば、たとえ初めてであろうと決して間誤つくことがなかったわけです。そこで、渡辺監督は「ウーム」と唸ってこう申しました。「もし浅野内匠頭がこんな抜目のない人だったら、刃傷沙汰を起すようなこともなかったろうに・・・」
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