− 今度の『忠臣蔵』の特徴は

 それは、浅野内匠頭の刃傷に対する判定があるということです。この判定というのは、刃傷のあった直後、柳沢出羽守が、入浴中の将軍のもとへ行って、まず柳沢の主観を通した朝の、吉良の刃傷事件を報告し、それが為に、徳川幕府のモットーであった喧嘩両成敗の掟に反した、片手落ちの判定が下ったのですよ。

 この事件が、忠臣蔵に入っていないと、後に大石があれだけ苦労して、堂々とした仇討をしよう、又、そうしなければならないと決心する理由が、どうしても一方的になってしまうと思う。大石は決して後ろへ隠れた仇討をしようとは思っていませんよ、その心底には、幕政のある所を改良させようとするものがあったのじゃないですか、いろんな本を読んでみて、僕はそう感じましたね。それに、今迄の忠臣蔵にはこれがなかったんですよ、刃傷の後はすぐに、浅野の切腹になっているんです。

 − 片方の吉良をどう考えておられますか

 吉良は賄賂ばっかり取っている悪い奴に描かれているし、又、そんな性格は今度のにも流れていますが、吉良と柳沢は仲が良かったんですね。

 吉良家は、その頃、高家筆頭として大変な勢力を持っていたのですが、この吉良にとって、虫酸が走るほど厭なものは何かというと、所謂外様大名の動きなんです。

 武だけではどうにもならない、元禄という時世にあったにもかかわらず、江戸城へ登城となると、大名、ことに田舎大名が横行闊歩する。それが憎かったんですね。何か変事が出来した場合、それを治めるのに武をもってしない、所謂文治政策を柳沢は標榜しており、吉良もそれにのっているんですよ。そういった幕政に、馴染む大名とそうでないのと、二つがはっきり別れていたんでしょうね。だから吉良がね、ああいった佞奸でなく、気の強い男であったら、武をふりまわすような大名とは、もっと正面切った喧嘩をしただろうと思いますね。浅野が切りつけるまでに、吉良を切ろうとした大名が三四人いたということからも、考えられることですよ。

 − 史実として調べられたのは

 私の読んだ本が参考になるかならないものかはわかりませんが、私が史実に頼ったものとしては、徳富蘇峰先生の「近世国民史・元禄篇」と「義士篇」、福本日南の「快挙録」その他、名前は忘れましたが、四冊はほどなんです。私が今云ったような事は、これらの本の中では肯定されていますよ。

 面白いことは、江戸の町民たちなんです。当時から、単純で気が短かったとみえて、大石は必ず仇を討ちにやってくると、痺れを切らして待ってたんですよ。義士の仇討というのも、義士たちは秘密は守っていましたが、まわりの極く少数な人たちの間では、公然な秘密だったんですね。そうなってくると幕政に携わっていた家老たちでも、仇を討たせた方がいいんじゃないか、と考える人もあったんじゃないですか。その為にではないだろうけれど、十五年の五月には、吉良の屋敷が数寄屋橋から橋を渡った本所へ屋敷換えになっていますね、こちらのとりようによっては、どうにでもとれることがいくつかあったのは事実なんです。