− 大石を除いた義士たちが、みんな軽輩であったことから、仇討を一種の就職運動とみている人もありますが

 それは嘘だと思います。そういう考え方はあってもいいとは思いますが、それはやはり現代人の考え方であって、否定されるべきものでしょう。

 あくまでも大石と生死を共にした人たちが、討入りに加わっているんです。義士たちは、討入ったら死ななきゃならないことは知ってるんですよ。だから、討入り前の十日というのもの、義士たちは細かい日記をつけたり、身辺の整理ををしたんですよ、その日記は今でも沢山残っていますよ。討入って本懐を遂げた後、四つの藩にお預けになった時、みんが整理して残したものなんです。

 お預け中は、華やかな待遇を受けはしましたが、すぐに死ぬということは知っていましたよ、それがわかっていて、あそこまでやったということは、やはり偉いことですね。

 − 今度の忠臣蔵は講談忠臣蔵であるという言葉をよく聞きましたが

 大映が今度の忠臣蔵を作るに当っては、講談的な忠臣蔵ということをモットーにしていますし、又、そうでなければ、私は当然辞退しなきゃならないわけです。それに、講談的な忠臣蔵にしては撮影日数が非常に短い、これだけのキャストを動かすのに、長くかかってはどうにもならないから、というのでお引受けしたわけです。

 

 今度の忠臣蔵には、まともに講談の入っている所があるんです。昔の講談と、今の私の見ている講談と、この二つが合うか合わないかを非常に心配しているのです。

 仮にも吉良を私は今のような気持で撮っていますし、浅野は浅野で、それでは何故吉良に賄賂も渡さずに頑張ったか。当然浅野としては、江戸にちょっと物の目先の利く家臣がいたならば、もしそれですむことなら、五百両や千両の金は主人に内緒で持って行ったでしょう。しかし浅野家の家風というものが、勅使をお迎えするのに賄賂を出すことなどは出来ないと、それを押し通したんでしょう。

 そういった吉良と浅野をおいて、大石が四十七人をまとめて討入っていくということと、今云う講談をうまく合わせていくことは、こっちも非常にむつかしかったわけです。しかも、忠臣蔵の中にはオーソドックスなものがあるでしょう、忠臣蔵と云えば出てくる祗園の一力、山科閑居、南部坂、それに垣見など、これはどうしても入れなきゃしょうがないでしょう。そこへ私の講談が一つのプリンシプルになって通っていますからね。そういったものをどういう風に処理していくかが、今まで何度もあった忠臣蔵を取りあげるむつかしさですね。

 講談として入っているのは、南部坂の後の赤垣源蔵、勝田新左衛門の別れのくだり、最後の両国橋などですね。そば屋などをどうつないでいくか、今頭痛鉢巻ですよ。入れにくいところですね、この辺は・・・。両国橋も、あったと云う人となかったという人とがありますが、そんなことはかまわない、とにかくあんな人物がいて、両国橋は真直に行くと江戸城へ突き当るから、そこを通れば叛乱軍になる。それで横を通らせたんだとしてみれば、そんなこと、あったかもわかんないですよ、会社の注文で入れたところではありますが、当時に溯って考えて見れば、そうであったろうと思われる節々に当りますね。

 私はね、これは隠したってしょうがないけど、ゲラで泣き虫なんですよ。それが今度ほど俳優に演技をつけたり、やっているのを見ていて、涙の出たことを知りませんね、初めてだね。『明治天皇と日露戦争』の時も涙は出ましたよ。でもあの時は演技指導に夢中になって、余裕がなかったんですねぇ。今度はずいぶん泣きましたよ。山科の別れはもちろん、おるいという吉良方の女間者が「女と酒ばかりの中に、どうしてあの澄んだ眼と姿を保てまちょうか、恐ろしい程美しい姿です」と云う所とか、ずいぶんありますよ。