プロデューサーの秘話
『雷蔵と私』
雷蔵と勝
エレベーターが閉りかけた時、馳け込んで来た二人の若者がいた。一人は、目許が涼しく清冽な感じの匂う青年。もう一人は、エネルギッシュでよく動く黒い大きな眼は鋭いが、人なつっこさが溢れている青年。前者は市川雷蔵、後者は勝新太郎である。
大映作品で衣笠貞之助監督の『地獄門』がカンヌ映画祭でグラン・プリを獲得し、溝口健二監督の『山椒太夫』がベネチア映画祭で銀獅子賞に輝いた昭和二十九年。この年、『花の白虎隊』でデヴューした新人二人は、大映関東館主会でご挨拶のため京都撮影所から馳せつけて来たのである。私は入社三年目の馳け出し企画部員で、館主会なるものを覗きに来たのである。会場へ昇るほんの数十秒間の印象を何故か今でも鮮烈に記憶している。
紺のスーツをきちんと着た雷蔵、勝の二人とも、新入社員のように緊張しているが微笑ましかった。
それが、雷蔵と私の初対面である。
当時、永田雅一率いる大映は快進撃を続けていた。三年前の昭和二十六年、創立十周年のパーティが盛大に催され、記念に作成された「大映十年史」には、小林一三、大谷竹次郎、藤山愛一郎、田中耕太郎といった大先輩、谷崎潤一郎、吉川英治の諸氏が、映画界の若き風雲児永田雅一に激励と賞讃の言葉を贈っている。二十年後の倒産を知る由もない大映は、正にわが世の春を謳歌していた・・・・。
同じエレベーターに乗り合わせた三人の未知の映画新人は、その時、お互いの胸に無限の可能性と野心を秘めていたのである。
それから雷蔵、勝は、良きライバルとして鎬を削り、大スタアへの道をまっしぐらに進んでいったのは周知の事である。
大映が倒産した年の春、私は新宿東宝で勝プロ製作の二本立『座頭市』と『子連れ狼』を観た。場内は満員で熱気に溢れていた。倒産で差し当り映画を作る場所を失った私にとっては、同じ釜の飯を喰った勝新太郎が孤軍奮闘しているのが無性に嬉しかった。私はすぐ勝プロへお祝いの電話を入れた。年の瀬の雑踏で賑わう新宿の街を歩きながら、私は云い知れぬ淋しさに襲われた。
雷蔵が生きていれば、きっと私は彼と組んで映画を作っただろう。気心の知れた仲間と一緒に作った映画が、その夜、新宿のどこかの映画館で上映されているに違いないと・・・・。
翌年、一緒にプロダクション「行動社」を作った増村保造監督が、勝プロで『兵隊やくざ』を撮ることになり、私は勝新太郎と打合せをしていた。勝プロのオフィスで何気なく入れたテレビの画面に私の眼は釘づけになった。それは、東京へ旅立つ丑松の雪の別れのシーンである。『破戒』は、雷蔵の結婚のお祝いに市川崑監督が作った傑作で、私もスタッフの一人として誇りにしている作品である。勝ちゃんも私も暫く黙り込んで画面を瞶めていた。そして、勝はぽつりと云った。
「早すぎたよな、雷ちゃんは・・・・」