五条疎開跡で

・・・雷蔵や灰田勝彦らと草野球・・・

 また当時、映画人の顔のほかに、歌手として「燦めく星座」(1940年)などを大ヒットさせていた人がいた。灰田勝彦さんである。彼は、さらに別の顔があった。本当に野球を愛した人だった。

 映画のロケのオフの日で、雨でなければ、私達に決まって使いの者から、試合の連絡が来た。定宿が、問屋町五条下がるにあったのだ。天保年間創業の老舗旅館の晴鴨楼である。私たち草野球のメンバーを揃えてくれと、頼まれたのだ。映画メンバーを引きつれて、近所の少年とよく対戦した。

 灰田さんは、いつもピッチャーであった。一度だけだが、人数の関係で、私が灰田さん側のキャッチャーに回されたことがあった。「坊や打つんだよ」と灰田さんが、私の肩をポンと叩いて、バッターボックスに送り出してくれた。

 このあと、雷蔵は、私に向って、

 「良かったなあ、牛皮のミットが使えて」と羨ましそうに言った。私は、

 「上等舶来製の新品やろ、目がクラクラとした」とオーバーに応えた。すると、雷蔵は、

 「僕らも、灰田さんみたいなグローブが欲しいなあ」と言った。

 それは、とても実現不能の望みだったが、私も同調した。

 二人は、もっぱら軍手か布製を使用していた。

 「灰田さんレベルに追い付くには、まず何より牛革製が必要や」という変な結論を二人で出した。

 私たちは、牛革のグローブ一つで夢が語れるぐらい貧しかった。

 ご承知かも知れぬが、ボールに回転を与えずに、ファファーと飛んでくる、打ちにくい新球種だったナックルボールは、当初は《灰田式握り》と呼称された。

 その後、この投法が広まり、国鉄の大投手金田も、阪神タイガースのエース村山投手も、灰田式握りをマスターして名ピッチャーに成長した。私たち少年は、この握り方をいち早く灰田さんから直接に盗んで得意だった。


灰田勝彦 1911(明治44)年8月20日━ 1982(昭和57)年10月26日は、日本の歌手、ウクレレ奏者。アメリカ合衆国ハワイ準州(現:ハワイ州)ホノルル生れ。本名(幼名):灰田稔勝(はいだ としかつ)。ハワイアンやヨーデル、流行歌で第二次世界大戦前後に一世を風靡し、また、映画俳優としても華々しく活躍した。作曲家でスチールギター奏者の灰田晴彦は兄(のちに有紀彦に改名)。(wikipedia)