市川雷蔵を偲ぶ催いが、いまだに京都市内で続いている。祇園会館や朝日会館でも、雷蔵シリーズ映画が上映された。衛星放送BS2では、雷蔵と八千草薫とのコンビ映画が、昨夜放映された。後にさらに、日を替えて三本続くそうだ。
雷蔵は、大映時代劇の看板俳優であった。昭和二十九年に、勝新太郎と共に銀幕デビューしたのだ。翌年になると、『新・平家物語』で、若き日の平清盛の凛々しい公達ぶりを披露し、注目された。そして、銭形平次で、当時ならしていた長谷川一夫の後継者と目された。
「眠狂四郎」シリーズや『華岡青洲の妻』などで、不動の大スターになった。そして間もなく、三十七歳十ヵ月で夭折した。
市川雷蔵と私は、幼友達だった。彼は中学生の頃に、私の実家から四軒南の家に住んでいた。宮川町の廓の近くだった。運動神経の良い、きりっとした美少年であった。養子にきたのだ。彼はその後に、再び歌舞伎に縁の深い市川寿海家に、二度目の養子に出たのである。
仲間内では《きっちゃん》と呼んでいた。本名を吉藏(ママ)と云った。昭和六年生まれだ。その後に、あんな売れっ子の時代劇俳優になるとは、想像できなかった。
彼とは、よく草野球をした。鴨川五条東詰の疎開跡である。当時、まだ一部は家庭菜園も残っていた。この辺は、終戦まぎわに、空襲による延焼を恐れて、住宅を強制的に立退かせて、防火帯に広げた。しかし広がったスペースは、永らく整地されずに、疎開跡の広場のままだった。通行は、もっぱら北隅の六メートル幅に限られた。我々野球少年は、この広い空地をグランドのように活用した。その仲間に《吉っちゃん》こと雷蔵は確かに居た。 |