雷蔵映画で、私がもっとも感銘を受けたのは『炎上』である。昭和三十三年に公開されている。当時、大映のなかでは、美男スターにこのような役を与えるのは興行上得策ではないという声があった。が、これにもっとも抵抗したのは当の雷蔵である。
「この役は何としても自分がやりたい」
と一歩もゆずらなかった。
ファンクラブの集りにでかけても、「スターとなって四、五年目、人気も地位も一応安定してくると、これまでのものを脱皮することがやりたくなるのです。どうか皆さん、一人でも多くの人を誘って、この映画を見にきて下さい」と訴えている。「自分はこの役をきっかけにして俳優市川雷蔵を大きく飛躍させたいのです」ともいっている。
私はまだ十代後半の少年だった。映画館でこの映画を観たときの興奮は忘れていない。まるで市川雷蔵その人が金閣寺を炎上させてしまった当の人物ではないかと思ったほどだった。雷蔵はこのときまだ二十七歳だった。
もしかすると雷蔵は、その心情において金閣寺を炎上させてしまった青年僧のような心境を共有していたのかもしれない。寺で下積みの地位にありながら、この世の汚れた現実にふれていく。それに反してあまりに美麗な金閣寺、その金閣寺を守る人たちのみにくさに絶望した青年の心理は確かに当時の少年たちの気持につうじるものがあった。
雷蔵は『炎上』や『忍びの者』といった名作といわれる作品について、三十代半ばになっても表向きは感想を語っていない。だが、星川清司にいみじくも「自分には自分が納得している好きな作品はない」と洩らしたのは、映画ファンを感動させた『炎上』にさえも不満はのこったいたということだろう。
昭和四十三年の夏、三隅研次のメガホンで『関の弥太っぺ』の撮影が進んでいた。撮影にはいってまもなく、三隅のところにやってきて、「黙っていたけどつろうてかなわんのや」と弱音を吐いた。
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医者に直腸潰瘍といわれていて、血便はでるし、痛いし、出血がつづくので貧血を起こすというのだった。それに耐えてなんども立回りをしていたのである。三隅はすぐに精密検査を勧めた。雷蔵は東京の順天堂病院に入院した。すでにそのとき雷蔵の身体はがんに冒されたいた。むろんその病名は雷蔵にも家族にも伝えられなかった。
星川清司が雷蔵自身から「会いたい」と連絡を受け、順天堂病院にとんでいった。
雷蔵はガウンに身を包んで、疲れきった表情でベッドに横たわっていた。星川と二人きりになると、初めて弱音を吐いた。
「わしはもう終わりだ。病気は思わしくない。もうだめかもしれない」
雷蔵はそういって泣いた。自分の人生はそう長くないとくり返すのであった。
七月にはいって開腹手術を受けた。容態はもち直した。星川は再び病室に見舞った。
「なんだ、たいしたことはなかったね。よかった、よかった」
と励ますと、雷蔵は弱々しく笑った。
ベッドの傍には生れたばかりの子供を寝かせ、「おまえだけや。わしの傍にいて寝てくれるのは」とあやしたりした。そして退院したあとは、自宅療養をつづけたが、スケジュールはつまっていて秋口からは『眠狂四郎・悪女狩り』と『博徒一代血祭り不動』の二本たてつづけに出演した。正月映画である。雷蔵の新作は観客もまた待ちこがれていたからだった。
昭和四十三年の師走になると、症状はしだいに悪化していき、身体はやせ、腰も曲がるほどになった。昭和四十四年二月、朝日生命病院成人病研究所に入院した。もうこのときは病魔も進み、雷蔵は別人のようにかわりはてていたという。いかに生命を延長させるかが治療の主眼になっていた。雷蔵もまた病名をうすうすは気がついていた。
再入院後、雷蔵は誰とも面会しなかった。雅子と子供たち、それに永田雅一らだけに限って会った。あまりにかわりはてた自分の姿を見せたくないというのであった。病院関係者の証言では、雷蔵は病室で一人きりになると、ひそかに泣いていた。死と戦っていたのである。
雅子には
「ぼくが死んでも、死顔は他人に決して見せないようにしてほしい。役者なのにこんなにやつれた顔を見せるのは辛い」
といった。これが雷蔵の最後の頼みであった。再入院してから六ヶ月の七月十七日午前八時二十五分に雷蔵は逝った。その十五分ほど前までは意識があったという。喉に痰がつまったのを看護婦が取り除くと、「ああ気持がいい」といった。
東京・音羽には雷蔵夫人と子供たちが健在である。取材の申し込みに、雅子はひっそりと答えた。
「市川の生前から、表には一切でないようにと固くいわれておりましたので、申しわけありませんが、お話できません。雷蔵忌のことですか?ええ、ぜんぜん知りません。でもご連絡を受けても私たちがお伺いすることはありません。家族だけで供養をつづけておりますので・・・」
雷蔵はいまもなおミステリアスなまま、雷蔵映画を観る者にその素顔をあかしていない。そして画面から次代の者に切々とした哀感を訴えつづけている。(文中敬称略)
91年8月1日発行「オール讀物」8月号より
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