映画監督の井上昭は、いま六十二歳。大映京都撮影所の黄金時代に凝った画面構成や登場人物の新鮮さなどで映画ファンをうならせた。森や三隅の助監督にも就き、雷蔵映画を撮った。監督になってからは、『眠狂四郎多情剣』『若親分乗り込む』『陸軍中野学校・密命』『陸軍中野学校・開戦前夜』の四本を撮っている。その井上も雷蔵という素材で映画が撮れたことを誇りに思っている。あれほどすばらしいスターはいなかった、としばしば口にするのだ。

 井上は眠狂四郎シリーズの八本目を撮った。それまでの監督が、それぞれこのキャラクターに独自の性格を与えている。井上もなにか新しい特徴をつけ加えようと思った。カラー映画だったが、想い出のシーンはモノクロにするなど映像面でこれまでとは異なった試みを考えた。それともうひとつ雷蔵に新しいイメージを与えようとして、足を映すことにした。

 雷蔵は下半身が弱かった。井上にいわせると、それが短命に終わった原因ではなかったかというのだが、どうも内臓が弱かったらしい。下半身の弱さは、雷蔵も充分自覚していた。そこで同志社大学の相撲部に行って四股をふんだり、ぶつかり稽古などをして鍛錬していた。他の監督は、雷蔵の下半身があまり絵にならないというので映したがらない。井上は逆を狙ったのだ。

 早足をアップで撮りたい、それもアリフレックスというハンディカメラで上から撮りたい、それには本人がハンディカメラをもてば撮りやすいうえに映像もきれいに撮れる。どうだろう、雷ちゃん、カメラを回してくれないか。井上が頼むと、雷蔵は快く引き受けた。早足のシーンの撮影は初めはなかなかうまくいかなかったが、やがて雷蔵もカメラに慣れ、効果的なシーンとなってスクリーンにのこっている。

 その井上の印象にのこっているのは、雷蔵がメーキャップを決して公開しないスターだったということだ。

 「かつらなどは床山さんにやってもらっていたようですが、メイクの肝心なところはすべて自分でやっていましたね。ぼくが助監督のとき、雷蔵くんの出番がくると部屋まで呼びにいくんですが、決してそのなかにははいらなかった。それを拒否するふんいきがありました。

 もともと雷蔵くんは、花柳章太郎の息子だった武始、それと勝新太郎の三人と共にデビューしています。メイクの方法は、三人とも長谷川一夫さんから教わったんです。勝くんも花柳くんも大らかで長谷川さんのいうとおりに受けいれていました。ただし雷蔵くんだけは長谷川さんの意見をさほどきかずに自分のやり方でやっていましたね。スチールをみますと、目張りの入れ方やまゆげの入れ方に独自のものがあります。

 これはどこで学んだのかは知りませんが、普段の表情はおっとりしていても、自分独自のメイクで役柄にふさわしい顔をつくってしまう。ただひとりでメイクしながら、役のなかにしだいに没頭していったのでしょう。そのプロセスを他人には見られたくなかったのです。『炎上』などは丸坊主の役でしたが、ほとんどノーメイクでしたね。役柄にあわせたメイクのできるスターだったんです」

 楽屋で一人ぼっちでメイクしながら、役になりきっていく雷蔵には、何かこころに期するものがあったのではないか。鏡にむかって何事かをささやきかけながら、自分の地肌と役柄を一体化させていったのではないか。役柄を自分の地肌に引き寄せるための精神の没入をはかっていたのではないか。

 「雷蔵くんのポスターはたいてい後ろ姿で、頭だけふりむいているのが多い。現代物だとまっ正面からとっているものもあるが、それも陰影のはっきりしたものが多い。この後ろ姿に虚無があり、雷蔵くんの魅力がよくでている。どの監督もそこに魅かれて、後ろ姿を撮りたがったんですね」

 井上はそういいながら最後になにげなくつぶやいた。

 「彼の生きてきた人生には、何か深いところを真剣に見つめている姿勢がある。それが何かは、ぼくはわからなかった。監督としてあまり役者とはつきあわなかったから・・・。松方弘樹や鶴田浩二も眠狂四郎をやったけど、やはり雷蔵くんにはその精神においてかなわなかった・・・。雷蔵くんがじっと見つめていたののは何だったのだろうね」

 雷蔵の心中は誰にもわからない。